うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

名前と重さ

 長くインターネットを眺めていると、比較的親しかった人が、だいぶ経ってからまったくといっていいほど見かけなくなることがある。なんならアカウントを消すこともある。知り合いはちょっとずつ少なくなる。その分増えることはあるけど、「あのころよくふぁぼしたなぁあの人、いまなにしてるんだろ」と感慨にふけることが多くなっている。

 最近なんとなく、そういった人たちが消えたり、あるいは「消したり」したのは、「名前」が重荷になったからではないかと考えることが増えた。

 インターネットで名乗る名前は自由だ。好きなように、どんなようにつけられる。そして、インターネットの所業は往々にして、その名前に紐づく。良いことも、悪いこともだ。そして多くの場合、その「良い/悪いこと」は、そんなに極端なものではないけど、一定数はあるような感じになる。

 そのひとつひとつは、さして大差ないことが多い。ただ、長く長く積み上がると、それなりの重みが生まれてくる。その重みが、名前に紐づく。同じ名前、ID、アカウントを使う限り、その重みは文字通りの重力のようにかかってくる。

 それを振り払うことができる人や、気にしない人は、常に新しいことにチャレンジし、常に前向きに生きることができるのだろう。だけど、世の中の人が全員そんなバイタリティを持っているとは限らないし、あるいはマイペースであることもない。重力にあらがうくらいならば、いっそその「命」を終わらせて、新しい「名前」に生まれたほうが、ずっと楽だろう。

 そんな感じで、ある日突然「おわり」にすることが、インターネットでは誰にでもあるのかもしれない。いや、おそらくずっと前から、それには気づいていた。ただ、実感をもって考えられることではなく、「よもやま」の域を出ないものだろうと、思っていたように思う。

 それを「よもやま」と捉えられなくなったときが、「幼年期の終り」になるのだろうか。