うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

オナホールバラバラ殺人事件(あるいは、「彼女」たちとの別れについて)

 年の瀬の大掃除。それは一年のうちにためこまれた物欲、煩悩、無念、悔恨、憤怒、といった感情の残滓を、まとめてゴミ袋に叩き込んですっきりする儀式だ。

 そんな折に強いてなにを整頓すべきか? それはもちろん、オナホールである。

 

 時にみなさんはオナホールを捨てたことがあるだろうか? 捨てたことがない人にあえて伝えよう。オナホールの処分は大変面倒、もとい、極めて厳格な作法が存在する。その作法を端的に述べると、「ハサミで解体」の一言に尽きる。

 「そのまま捨てていいのではないか」という意見もあるだろう。そういう剛の者もまた存在するはずだが、「ゴミ袋を覗くと女性器」というのはドッキリにもほどがある。隣に住む女川さん(主婦・55歳)であっても、不燃ごみの回収に来た浅井さん(27歳・ゴミ収集員)であっても、その衝撃は想像に難くない。いわんや小鳥のさえずる早朝に出くわしたら大変なことである。

 良識ある社会の構成員たる自負があるのならば、オナホールはハサミで解体しなくてはならない。可能なら2~3cm片レベルで細かく。樹脂製のボディからにじみ出る油を吸収するために、新聞紙で包んでおくとなおよい。そして、しかるべき日に不燃ごみ置き場へ安置し、ゴミ収集車へ焚べる。このような厳格なる作法を守ることで、初めてオナホールはゴミとして捨てられるのである。

 

 しかしながら、想像してもらいたい。オナホールにハサミを入れる光景を。そして――これは想像してもらわなくても結構だが――ハサミを挿れるその瞬間に生まれる、言い知れぬ虚脱感と、一抹の寂しさを。

 僕自身の体験を綴ろう。それは、友人から20歳の誕生日祝いに贈られた「転校生」だった。人生で初めてのオナホール。ローションとともに未知なるマテリアルだった。そして初めて使用した際の、その衝撃。僕はたしかに宇宙を見た。今でも忘れられぬ青春の1ページである。

 幾度と使用したかわからないが、幾年も経た「転校生」は徐々にヘタっていき、ある日中から謎の液体が垂れた――それが生理ではないことは明白だった。ちゃんと洗ってたはずなのにね。その時に、僕は人生の苦楽を共にした彼女と別れることにした。

 「転校生」を手に持ち、その中央にハサミをあてがう。こんにゃくゼリーをさらに強化したような弾力。ぐんにゃりと、しかしたしかな手応えをもって切断される樹脂の名器。

 ――思い起こされる20歳のあの日。「なんてものをよこすのか」という喜びと困惑に包まれた池袋駅・いけふくろう前。夏も盛りで蒸し暑い日だった。だが、それよりも熱い期待感が、たしかにあった。

 ハサミを持つ手に力を込めると、「転校生」は中央より真っ二つに断ち切られた。顕になる内部構造。「3Dダブルスパイラル」を謳う、イボと螺旋で象られた産道。しげしげと眺めた後、残骸へさらにハサミを入れる。二片から四片。四片から八片。細切れにされていき、「オナホール」から「樹脂片」へと変じていく。

 ――初めて用いたあの日。家族の目を盗んで浴室に持ち込み、身体を洗い終えた後、ローションを穴へ注いだ二十歳の夜。怒張した男性から全身へ駆け巡る電撃。どの程度保ったかすら記憶にない。瞬く間に果てた。快楽と感動。そして虚無。やった。俺はたしかに、やった。冷静と情熱のあいだに立ち、静かに穴から裏返し、残滓を洗い流した、盛夏の一幕。

 肉片にし終えた「転校生」を前に、僕は懐かしさと、悲しさと、そして、静かな感謝の念に包まれていた。

 

「いままでありがとう。どうか安らかに」

 

 そうして、彼女を新聞紙に包み込み、ゴミ袋に収めた。寂しさはあったが、どこか清々しい気持ちもあった。

 出会いがあって、別れがある。人生とはその連続である。「転校生」はたしかに、そのことを僕に教えてくれたのだ――

 

 このような感情のうねりを幾度も抱えながら、僕は(いつの年末だったか、そもそも年末だったかすら怪しいが)5つくらいのオナホールを処分した。新聞紙ににじみ出る油染みは、まるで彼女たちの最後の息遣いのようで、今でも記憶に焼き付いている。

 長らく愛用したものもあれば、パッケージ以外微妙でがっかりしたものもあった。それぞれに思い出があって、欲があった。良き射精も、悪い射精もあった。そうした思い出との別れは、たとえくだらぬジョークグッズといえども、感傷に浸ってしまうものだ。

 

 オナホールの解体。それは、過去との対話であり、思い出の清算である。

 かつての名器と別れ、新たな名器との出会いを待つ。悔やむことはない。それが人生だ。オナホールは、いつだって人生の大切なことを教えてくれる。