うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

岬明乃の解釈論を巡る諸問題について

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 言葉は常に個人の中で変質し、言葉の変質はコミュニケーションの齟齬を生む。

 直近において、僕の中で「変質」の対象として問題になっているのは、岬明乃だ。

 

 つまり、こういうことである。

 

 より詳細に記せば、こういうことである。

 

 これらは全て、僕の中で変質し、定義された岬明乃である。すでにオリジナルから歪曲し、全く同じ外見の別人と呼んでも差し支えないものだ。

 なにゆえ岬明乃を変質させてしまったかといえば、それは「より好きになる」ためーーもっというなら「よりよい射精のため」に他ならない。

 自らの欲望、嗜好のために、既存のキャラクターに無関係のコンテクストを与え、自らの中で動かす。キャラクターの一消費形態にして、原風景の一つ、「俺嫁」とは、そのような人形遊び的(あるいはネクロマンシー的)な営みだ。そして、上記のようなストーリーを与えずとも、「○○ちゃんに添い寝したい」「△△ちゃんと夕飯を食べたい」という欲求の萌芽だけで、「俺嫁」は実行されたに等しいのである。

 

 まぁ、そんなことはどうでもよい。問題なのは、「岬明乃の解釈」を巡る、言いようのない他者との断絶だ。

 まぁ彼とは以前から「娘だ」「いや彼女でしょ」などと言い争ってるので今さらではあるが、事実として彼にとっては「岬明乃は娘」なのである。「岬明乃は幼馴染の彼女」と定義する僕とは、すでに断絶が生じている。

 「彼女」と「娘」では、同じ美少女でもまる気質が異なる。互いにそれを意識せずに話せば、必ずコミュニケーションに齟齬が生まれる。

 「お父さんの下着と一緒に洗わないでって言ったじゃん!」と怒られたいか、「汗かいたから汚いよぉ…」と泣かれながらパンティ越しにクンニしたいか、まるで違う欲望がぶつかる時、運が悪ければその時点で殴り合い・宇宙なのだ。

 ゆえに、僕が他者と岬明乃について会話する時、上掲の独自設定は全て一度解除し、プレーンな岬明乃を脳内にセットする必要がある。そして、会話が終われば、再び独自設定がパッチされる。欲望にしたがって。

 ある種の擬態ではある。コミュニケーションとは擬態の連続だ。本性を隠し、相手にチャネルを合わせ。そうして生まれたのが、この21世紀なのである。

 

 余談ではあるが、岬明乃は「彼女」か「娘」か、の二元論に収束するとは限らない。

 ある者は「母親」であり、ある者は「妹」、はたまた「姉」。劇中の彼女の発言から「父親」とする者もいるだろう。

 その他にも、「お隣さん」「クラスメイト」「職場の同僚」「不倫相手」「ストーカー対象」「ハイエースしたい子」「痴情のもつれから殺されたい」「彼女自身になりたい」……岬明乃の解釈は無数に存在し得る。まるで大海原だ。解釈は常に、広大な海として、我々の前に顕現しているのだ。

 ふと、それら「個々人に解釈された岬明乃」が、全て別個体だとしたら、どうだろう。世界には大量の、全く同じに見える、しかし異なる岬明乃がいることになる。元は一つだったはずなのに、人の想像力によって、彼女自身にはあずかり知らぬところで、増え続けていく。それらは全て偽物か、本物か。いや、個人の主観が重なり合う世界にて、「キャラクターの真贋」など、果たして存在し得るのか。

 無数の岬明乃たちを想像する時、キャラクターは、人の恣意的解釈によって変質し、増殖する、奇妙な存在なのだと悟る。果たして、本物のキャラクターはどこにいるのか。そもそも、いたとしても、我々に見つけることができるのだろうか。「彼女が本物だ」と、断定することができるのか。

 

 考えれば考えるほど、答えは七つの青の向こう側へ遠ざかっていくような気がする。

 ただ一つだけ言えるのは、冬の街で、三年ぶりに岬明乃(幼馴染)と再会するシーンは、あり得ざるコンテクストと共に、ふとした衝動によって生まれるということだ。

 そして、少なくとも「僕の解釈」の中では、紛れも無い「原作」として、成立されてしまう。こうして今日も、キャラクターたちは消費されていく。

 

 そしてこれも余談だが、アンケートを実施している。各位、回答されたし。