うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

制服なき人生を征く

 まことに唐突な話だが、僕は人生で制服というものを着たことがない。

 幼稚園はたまたま私立で、みんな私服で通わされていた。小学校にも制服はなく、吊りスカートの女児というものとはまるで縁がなかった。中学と高校は中高一貫だったが、これが制服なしというトンデモ学校であり、思春期をブレザーも学ランも知らずに育ってしまった。大学に制服があるはずもなく、勤めだした会社も私服通勤OK、というオチである。

 計画してそうなったつもりはない。ただ気がつけば、僕の人生において、制服というものはまるで登場しなかったのだ。

 「なんて自由だろう」と羨む人もいるだろう。だが当人としては、これは勲章でもなんでもない。人生の大いなる欠陥である。

 つまるところ、「制服」に関わる話題にほとんど共感できないのである。

 

 世の学園モノの作品をご覧なさい。学園である以上は、まず生徒は制服を着る。この時点で爪弾きに合うのだ。教室でぼっちになる以前に、校門をくぐることすらできないのである。

 隣の同僚に耳を傾けてみなさい。「高校のころの制服が押入れから出てきてさ―w」とはしゃいでいるでしょう。この時点で話題に参入する資格は失われるのだ。僕にとって制服とは、押し入れから自然に出てくるものではなく、コスプレショップで恣意的に購入すべきものなのである。

 日常の話題から、フィクションの設定まで、およそ「制服」というものはほとんど普遍的な概念であり、ある種の共通前提として存在している。語るまでもない当たり前のコンテクスト。それを読み解くためのモジュールを有していないのは、想像以上に致命的である。

 

 先日の『きんいろモザイク Pretty Days』もそうである。春から通う制服の試着をしているシーンを眺めても、まず「ここはどこだ」という問いから入らないといけないのは、致命的な事象である。

 「制服は専門の取扱店があり、そこで買う。一般的には、地区指定のお店で買う」といった知識は、その実は宝に他ならないのである。さもなくば、「制服は、主に大人のコンビニとかで買う」という、どうしようもない知識しか持ち得ないのである。

 知識もそうだが、経験も重大だ。4月になり、新しい制服を着て登校する。途中で馴染みの友人と出会い、新しい制服姿を見せあいながらこう話すのだ。

「制服が変わっただけで、なんか大人になった感じがするね!」

 そんなセリフを耳にしても、「へぇ」としか感じられないのは、ひどく悲しいことである。

 この悲しみをどこにぶつければいいのか。強いていうならば、イメクラで指定する他ないのだ。

 

 もし、まかり間違ってこのブログを読んでいる小学生がいたら、僕はただ一つだけ伝えたい。

 できれば制服のある学校に行きなさい。そして、その制服は後生大事にとっておきなさい。

 そして、もし進学を控えたお子さんのいる方が、まかり間違ってこのブログを読んでいたら、同様にお伝えしたい。

 お子さんを制服のある学校に通わせてあげなさい。それが、子どもに与えられる最上の教育の一つです。

 制服なき人生は、想像以上にバグ多き人生になる。そんな事態に陥る人が、一人でも減ることを願ってやまない。

 

 余談だが、私服勤務OKだった僕も、先日常駐IT土方マンへとジョブチェンジを果たし、職場規定によってスーツを着て過ごしている。

 だが、いざスーツ暮らしを始めてみて気がついたのは、「スーツは想像以上に個性を生み出している」ということである。

 スーツの色、ネクタイ、ワイシャツ、ベスト、カーディガン、セーター、勤務中ジャケットを脱ぐかどうか……そういった点が積み重なって、スーツ勤務の人々は想像以上に差分を有している。学校制服のような画一性は、少しばかり弱いだろう。

 制服のある職場はあるだろうが、さすがにそのためだけに転職するというのはアレだし、そもそも、「(会社指定の)制服」と「(学校指定の)制服」は、全く異なるもののはずだ。

 僕はもう、制服を着て学校に通うことはできない。このあまりにも不可逆的な事実を受け入れて、残りの人生を歩むしかない。しかし、その人生がいささかみじめに見えるという事実が、心に突き刺さるのもたしかだ。