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うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

アニメはおもちゃ

CLIP アニメ

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 先日、母校の学祭ついでにサークルに顔を出したところ、現役サークル員の間で「ねねっちをおもちゃにする」ということが流行っていることを知った。

 ここでいう「ねねっちをおもちゃにする」とは、

  • ねねっちは知性が乏しい
  • ねねっちは殴りたくなる(ねねっち虐待)
  • ねねっちはまともに就職が可能なのか
  • ねねっちですら入学できる一橋大学とは*1
  • むしろ一橋大学にそっくりなFランではないか

 などの話題を取り上げ、ゲラゲラと笑うことなどを指す*2。早い話が「ネタにする」ということである。

 僕はこの話を聞いて、とても笑顔になった。いま現役のサークル員とは、少なくとも歳が3〜4つほど離れている。だが、「アニメをおもちゃにする」という文化は受け継がれ、不毛な「遊び」は続いている。コミュニティが残る限り、その根底に根付く文化も生き残るのだと、いたく感心した次第だ。

 

 「アニメはおもちゃ」という考え方は、僕が大学一年のころに出会い、以後なんらかの形で僕を規定している。あらためて思えば、僕がアニメをなにかしら消費する際、根底には「おもちゃにしている」という方向性が働いているように思う。

 その原体験は、一年目の春に、『AngelBeats!』の最終話を「おもちゃ」にしたことだろう。

 当時ピカピカの大学一年生だった僕は、ともすれば学内きってのキモオタサークルに入会した。インターネッツではちょうどエア本と淫夢が文明の興りを示す中、サークル内で最も話題になりやすかったのは、『けいおん!!』と『仏陀再誕』、そして『AngelBeats!』だった。

 つい最近「真章開始」*3という触れ込みでコンマ数秒ほど話題になった『AngelBeats!』だが、当時のサークル内では酷評を通り越して、まさに「おもちゃ」であった。

 「はぁ?聞こえなーい」とゆりっぺが言おうものなら*4誰かが真似をし、ささいなセリフや一挙動からエア本語録に接続された。いま思えば、「実質◯◯」論法が五月雨のごとく飛び交う、最高にハッピーな地獄絵図であった。

 

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 それが極まったのが最終話である。『AngelBeats!』を見ていない人に、ざっくりと最終話の内容を説明すると、

  1.  死後の世界にいる主人公たちだが、もういる理由もないので「卒業(=成仏)」しよう、という話になる。
  2. 一人ずつ成仏していくが、主人公と「天使ちゃん」というヒロインだけが残る。
  3. 主人公が「天使ちゃん」に「俺たちこのまま成仏しないでここで仲良く暮らそうぜ!?」と迫る。
  4. 「天使ちゃん」は「いやそういうのいいから(意訳)」と言って成仏。
  5. 主人公が消えた「天使ちゃん」の名前を泣きながら叫んでEDへ。

 この5.が俗に「クズナシダンス*5」と呼ばれ、当時サークルでは大変大ウケした。

 誰かが「じゃあAngelBeats!みよっか」と言い出すと、それはきまって最終回で、きまって「クズナシダンス」のシーンがある終わりの方まで飛ばす。そして「ダンス」が始まった瞬間にみんなで真似をし、「カナデェェェー!」と叫んだ瞬間にみんなで爆笑する。そんなことをほぼ毎日繰り返していた。無論、僕も踊り、爆笑していた。この期間で、現在の僕がほぼほぼ形成されたようなものである。

 

 上記の行動にはとりたてて生産的な意味合いはない。絶賛の論を綴ったり、批判の弁を唱えたり、それらをぶつけ合った討論をするわけでもない。「クズナシダンス」を前に爆笑する時、僕はたしかに、「AngelBeats!をおもちゃにして遊んでいた」のである。

 もっとも、「アニメをおもちゃにする」という行為は、ある意味ではもっとも基本的な受け止め方であるとも、僕は考えている。

 一消費者が、アニメという娯楽を前に、考察をしたり、批評したり、討論をしたり、というのはよく見かける。けれどもこれ、本来はひどく歪というか、背伸びをした行為であるように思う。そんな権限は、本当はどこにもないはずなのだ。

 まずは、おもちゃとして(ポジティブであれネガティブであれ)「遊び」倒すことが、基本なのだ。ささいな要素をネタにし、ゲラゲラと笑うこと。意中のヒロインに対し、気持ち悪い妄想を膨らませ、自慰にふけること。グッズを買ってはしゃぐこと。

 そんな風に消費した作品は、「たっぷり楽しんだ」作品として、もっとも基本的な記憶の残り方をする。それは、「親の仇のように酷評した」とか、「絶賛するあまりネット上で殺し合いに近いやりとりをした」とか、そういった記憶よりも、よっぽど上等な思い出になるはずだ。

 

 ただ、さらに穿って見るならば、考察や批評といった行いすら、「遊び」の延長線にある、とも言える気もする。

 考察とは、極論を言えば「個人の見解を投影する」ということである。それは、「個人の見解」という遊び方をもとに、アニメをおもちゃにして遊ぶ、とも言い換えられる。批評もまた同様に、「絶賛/酷評」という遊び方をもって、アニメをおもちゃにして遊んでいる、と言い換えられる。討論は、ヘタすれば幼稚園児のおままごとに近い様相すら示すかもしれない。

 この世全ての考察、批評、討論が「遊び」であるということではない。本来、これらの行いは、多くの知識や智慧、旺盛な思考力、精緻な論理が必要なものである。だが、知識も智慧も思考力も論理もない消費者であっても、真似をすることができる。殊にインターネッツには、そんな「遊び」としての考察、評論、討論が多く見られるような気がするのだ。

 

 とりたててこの文章でなにか主張したいわけでもないが、一つだけ思うのは、アニメを前に知識人ぶった振る舞いをするというのも、ひどく滑稽だということだ。

 子どものように、善意的であれ悪意的であれ、ただ全力でアニメを前にはしゃぐこと。それが、僕らが消費者である限り求められていくことだろう。

 トラブルメーカー的側面から、ねねっちを「知性が乏しい」などとおもちゃにしていくこと、大いに結構。そうした楽しみ方もまた、奨励されて然り、である。

 

 

 

P.S.

 天使ちゃんとアナルセックスができるR18版AngelBeats!の夢、僕はまだ諦めていないからな。

*1:詳細はGoogle先生が詳しい。 https://www.google.co.jp/search?q=%E3%81%AD%E3%81%AD%E3%81%A3%E3%81%A1+%E4%B8%80%E6%A9%8B%E5%A4%A7%E5%AD%A6&safe=off&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjC2PD52aLQAhXEzLwKHTmOCGUQ_AUICCgB&biw=1171&bih=627

*2:他にもあるだろうか。教えてくれ現役ボーイズのみんな!

*3:詳細は……と書こうにもWebには公式ソースが見当たらない気がする。なんの雑誌出展だったか。 https://www.google.co.jp/search?q=angelbeats+%E7%9C%9F%E7%AB%A0&safe=off&biw=1171&bih=627&source=lnms&sa=X&ved=0ahUKEwjRpJSM2aLQAhVEabwKHZGEApgQ_AUIBygA&dpr=2

*4:あの時のゆりっぺは本当に畜生にしか見えなかったと今でも思う。

*5:主人公が「音無」という名前であったことと、このシーンのいろいろアレな感じに由来する。