うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

最古の記憶でハサミを持つ

 しばしば、「お母さんの中から出てきた時のことをおぼえている」という人がいる。

 母の子宮から放たれ、産道を通って世に生を授かる瞬間。それが自分の「最古の記憶」なのだと。そういう人がどのくらいいるかは知らないが、おそらくそれは誇っていいことだろう。

 なぜなら、ろくでもない「最古の記憶」を持つ人もいるからだ。

 

「リビングでハサミを持っている」

 

 それが僕の「最古の記憶」だ。

 より詳細に記すと、それは3歳のころだ。自宅のリビングで、僕はハサミを持っていた。家には父がいて、母は出産間近で病院にいた。3歳の僕はといえば、ハサミを片手に、机の上に置かれた、おりがみらしき物体と向き合っている。付近には紙くずが散らばっていて、つまるところ僕はハサミでおりがみを切り裂いて遊んでいた。

 だからなんだというのだ。

 産道から出てくる「最古の記憶」の記憶は、自慢とまではいかなくとも、話の種になる。個人的な感覚だが、産道から出てくることをおぼえているのは、貴重な体験だからだ。

 

「俺、母さんのお腹の中から出てきた時のこと、記憶にあるんだよね」

「へーそうなんだー! すごいねー! どんな感じだったの?」

 

 こんな感じで飲み会で話題が広がっていく。一瞬だけかもしれないが、その場の中心になれる可能性がある。産道から出てくる記憶というのは、そういうものだと思う。

 だが、「ハサミを持っていた3歳の記憶」は、どうにも使いづらい。

 

「俺、3歳の時に机の前でハサミを持ってた時のこと、記憶にあるんだよね」

 

 こう切り出したところで、「へぇ」という生返事だけ返って沈黙に包まれるだろう。「へぇ」だけならまだいい。「もしかして、バカなんじゃないのか」と思われたら、事態は一層深刻になるはずだ。

 

 「最古の記憶」になぜ歳のばらつきが生まれるのかはわからないけど、ひも付けやすいのは「物心がつく速度」だろうか。そこまで古い記憶があるということは、その時点で周囲を認識し、かつ記憶として保持し続けられる、とも考えられる。きっと聡明に違いない。

 裏を返せば、「最古の記憶」の時の年齢が高いほど、ぼんやりとした人間であるとも考えられる。少なくとも、3歳が人生の始端となっている僕は、物心つくのも遅い、ぼんやりとした人間なのだと思う。

 そういう人として生まれてしまった以上は、もうどうしようもない。ぼんやりと生きることも決して悪いことではないだろう。

 だけど、「ハサミを持っている」が「最古の記憶」なのは、なんとかならなかったのだろうか。

 トロフィーはいい。拳銃でもいい。剣でもいいだろう。でも、最古の僕が握っていたのは、ハサミなのである。このどうしようもなさはいったいなんなんだ。