ユートピアが燃えている。事の発端は先日放映された『ハロー!! きんいろモザイク』の10話だ。
「モザシコ」と呼ばれる悪鬼の軍勢が一斉に産声を上げたのである。
10話はきんモザのなかよし5にんぐみが海水浴に行く回だ。一見すれば、何の変哲もない「夏のエピソード」が放映されたと思うだろう。しかし、視聴者の焦点となったのは水着姿の5にんぐみであり、その水着姿は「シコれるかどうか」という文脈で語られ出したのだ。
これまでも、きんモザには極小数のモザシコ勢――きんいろモザイクで射精する人々は存在していた。しかし、その存在はごちうさ以上の禁忌とされ、きんモザは長らく「聖域」として君臨し続けることができた。その牙城が崩され、「きんモザでシコるべきか否か」という論争がにわかに起きている。ような気がする。
という煽り文句はさておき、昨夜の10話でモザシコに対する言及率は、文字通り跳ね上がっている。どうしていきなり? そんな疑問は尽きないので、以下で10話とモザシコについて考えてみる。
モザシコ言及率について
Twitterの特定キーワード言及率を調べるツールはないかと思っていたら、「TOPSY」というツールが案外すぐに見つかったので、早速「モザシコ」を検索ワードにぶち込んでみた。
あまりにも一目瞭然の結果に開いた口がふさがらない。
サーチ対象にはRTも含まれているので厳密な数値ではないが、RTも含めた反響の大きさをうかがうには十分だろう。
では、人々に口々に「モザシコ」としゃべらせる魔力を持った10話とは、いったいどのような回だったのか。
2期にして初の水着回
上述した通り、10話はアリスたち5にんぐみが、夏休みを使って海に遊びに行く話だ。特定班によれば千葉県の御宿海岸だそうである。聖地が津田沼なので妥当な場所といえるだろうか。
夏だ! 海だ! 海水浴だ!
どんなアニメにも存在し得るこの「真夏のシーサイド論理」によって、5にんぐみは水着に着替える。この水着姿が最大の焦点になっている。
あられもない水着姿。力の入った水着姿。これが地上波に流れるや否や、各所から鈴虫の輪唱のように「シコれる」という声が響き渡った。
とりわけ陽子は反響が大きいように思う。「陽子めっちゃシコれる」という発言はこれまでほぼ皆無といっていいほど見なかった。しかし今や、かのクソの極みたるやら○んが「メチャシコボディ陽子」と言う始末である。
挙句たまたま同じ場所にいた烏丸先生とくっしー先生も豊穣な水着姿を披露し、こちらも「シコれる」の大合唱であった。
全体を通して水着でいたシーンが長いため、10話は肌色面積がかなり多い回となっている。
しかし、それ以上に重要なのは、この10話は1期・2期を通して、きんモザ初の水着回であるということである。
というよりきんモザ自体、これまでの肌色総面積がかなり少ないアニメであり、そもそも原作の時点でその手のお色気描写が異常に少ない。時折下着姿が登場したごちうさとは、比較対象になりがちだが実際はかなり対照的である。
水着回という鬼門
ごちうさにも水着回が存在する。元から下着とかかなり登場するごちうさだが、水着回の8話は5人全員の水着姿がAパートで乱舞し、上の画像のようなセクシャルなアングルも惜しみなく投じてきた。この千夜はアニメごちうさでも1位2位を争うスケベオーラを放っていると思う。
この回、「ごちシコの鬼門」と時折言われている。実際、シコリティのフックがそこかしこに生えているのは8話だろう。
そして今回のモザシコショックも合わせて考えると、この手のきららアニメにおける水着回とは、反エロという面ではまさに鬼門であり、のほほん日常枠が一瞬で股間によろしくない映像に化ける踏み絵である可能性が考えられる。
水着と裸体とシコリティ
なぜだろうと考えるに、水着は裸体に最も近い状態であり、水着姿は裸体を連想させるからではないか、という結論に行き着く。服の下に隠れた身体のラインが暴かれる時、極めて明瞭なシコリティがそこに顕現するのである。
きんモザやごちうさは頭身の都合上、子どもっぽいを通り越して非人間にすら見えるキャラクターデザインである。とりわけきんモザは、手足の細さと頭の大きさというデフォルメ気味なデザインも相まって、「妖精」と言っても差し支えない姿だ。
人間から離れたデザインは、ざっくり言ってシコリティの創出には向かないと思われる。猫に欲情して射精する人間は少数だし、そんな人物がいたら間違いなく変態だ。そして、きんモザのエロ同人の少なさ、キルミーベイベーのエロ同人の希少さが、この仮説を裏付けている。
そんな状況下において、突如として水着姿が透過され、きんモザの内部に裸体への補助線が生まれてしまった。それも陽子やカレンを見ればわかるが、比較的しっかり肉感を描いているのだ。「妖精だと思っていたら人間だった」という衝撃がそこにはある。
これまで妖精だったものが実は人間で、しかも女性の身体として申し分ないものであるとわかった時、視聴者の口からは「モザシコ」が唱えられるのである。この時の感覚は、なんでもないクラスメイトの女子の裸体をうっかり見てしまい、それが脳裏から離れなくてそのまま精通を迎える少年のようなものであると推測される。
モザシコの異物性
このように、10話は「きんいろモザイクでシコる」という、これまでかなりの高難度を誇った所業のハードルを著しく下げる効力を持つ。5にんぐみの水着は、多数のきんモザオタクを魔道へと堕とすだけの力を宿している。
しかしながら、原作の時点でも、これまでのアニメ版においても、きんいろモザイクは「性的」という文脈からかなり遠いコンテンツだった。それはまさに聖域であり、性欲を浄化する効能すら一部の視聴者は感じていただろう。
それだけ非性的な物語・世界観であるがゆえに、シコリティを顕在化させた10話は、きんモザの中でも異分子といえる。いわんやモザシコという行為は冥府魔道そのものに位置する、とすら言えるだろう。
そんな異端的行為・思想が急増することに、おそらくきんモザ原理主義者は耐えられないのだろう。各所で上がる怒りの声は、「少なくともきんいろモザイクはえっちなコンテンツじゃないだろう」という憤りがこもっているように思える。「モザシコすべきか否か」という論争は、「なんでもスケベにすればいいのか?」という問題を我々に提示している。
もっとも、「アニメキャラでシコる」という行為はそれ自体がタブーの極みではあるし、聖域に踏み込んでシコるくらいでは、タブーのレベルとしては同じレッドゾーンとして区別がつかないものかもしれない。
で、モザシコってするべきなの?しないべきなの?
それは海綿体の導きに従ってあなたが決めることです。