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うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

ポップ体とワードアートの悲劇について

イメージ CLIP

 本業はデザイン屋ではないが、なまじ学生時代に同人雑誌とかに関わってしまったせいで、中途半端にフォントに気を使うタチになってしまった。

 別にWord付属のフォントが嫌いというわけではないが(HGゴシックとかは今でもたまに使う)、なぜかあのフォントたちを使うのをためらうし、あのフォントを使った書類が送付されてくると「油断ならないやつだ」と思ってしまう。たぶん、無意識のうちに「ダサい」と思っているのだろう。

 

 ところで「ダサいフォント」とされているフォントの中でも、ひときわダサさが認知されているフォントがある。ポップ体だ。

 ポップ体は、いろんなところで遭遇することができる。例えば、大飯原発の再稼働が差し止められた時だ。

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 とても重大な判決に違いないのだが、ひどく間抜けに見えてしまう。

 あるいは、いまやたらと店舗が増えている、まいばすけっとに行けば出会える。

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 前々からこの店名ロゴにはなにか違和感を感じていたのだが、実に単純な話だと気づいた。「この看板ダセえ」と思っていたのだ。

 

 

 なにゆえポップ体はダサいのか。その理由は専門家ではないので正確には言えないが、どこか引き締まってないというか、おちゃらけている感じがするからじゃないかと思う。

 なにせ、ポップ体だ。ポップなのである。J-POPの「ポップ」だ。そもそもポップってどういう意味だ。大辞林は次のように答える。

ポップ [1] 【pop】
( 名 ・形動 )

  1. ポピュラー-ソング。ポップス。
  2. 軽妙で洒落ているさま。
  3. 広く大衆に受け入れられやすいさま。

 この項目から漠然とうかがえるのは、「なんか軽くて受け入れられやすい」 というイメージだろうか。

 そう、なんか軽いのである。おちゃらけているし、間違っても「司法は生きていた」というとても重大なことを伝えるには向いていない。それはまるで、腰パンのチャラい兄ちゃんが、ポケットに手を突っ込みながら裁判所前に現れ、マスコミに向かって次のようにしゃべるようだ。

 

「なんつーか、こう、司法が、生きてたっつゥかーァ? マジめでてえッス」

 

 こんなヤツに司法なんて語ってほしくない。いや、そこまでチャラいわけじゃないけど、どうにせよ司法を語ったり、お店の看板になるには、ちょっとちがう気がする。

 しかし、下町や繁華街の広告看板に使う分には、悪目立ちする特性が広告効果とマッチするし、つまるところ適材適所なのだろう。

 

 ポップ体もそうだが、それ以上に深刻なものがある。ワードアートだ。

 味気ないMS明朝の小さな文字よりも、より目立ち、華やかな文字を作れる機能だ。Wordを使っているなら、だいたいの人が知っているだろう。

 問題になるのは、ところかまわず使用されることだ。ワードアートはしばしば、例えば町内会かなにかのイベントのチラシに出現する。

 

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 人によっては目を覆いたくなる惨状だろう。

 なんで虹色なのか。なんでアーチ状になってるのか。なんでそんなにデカイのか。それらもろもろの指摘事項を憤りでくるむと、「ダサい」という感想が生まれる。

 

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 どうして斜めになるのか。どうしてメタリックなのか。

 

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 かといって組み合わせちゃうのもよくない。

 

 決して町内会をバカにしたいわけじゃない。もっと上品なデザインを取り入れる町内会だってあるだろう。だが、これは完全な偏見なのだが、ワードアートは町内会に出現するものだと思う。あるいはパソコン教室に出現するし、地方の町の公式サイトに出現するだろう。

 そのように思ってしまうのは、僕自身、かつてパソコンにふれた直後に通った道だからだろう。

 はじめてふれるWord。ふと目に入るワードアートなる機能。クリックする。踊る数々の装飾文字。思わずどれかをクリックし、テキストを編集する。メタリックな文字が不必要に斜めで現れる。

 その瞬間、おそらくこのように思っていた。

「も、文字が変形した」

 そして、他のワードアートも試していくと、徐々に増長していった。

「お、俺、パソコンを使いこなしているぞ」

 ワードアートの最大の特長は「手軽さ」だ。誰でも1クリックで、まるですごい手をかけたかのようなデザイン文字を作り出せる。「誰でもすごいものを作れる」というパソコンへの原始的なあこがれが、ワードアートで簡単に満たすことができる。

 そしてなにより、新しい技術を習得したら、それを試したくなるのが人間という生き物だ。吹きこまれたワードアートの知識を、とにかく実践したくなった時に、ワードアートの悲劇は生まれる。

 

 僕の場合はこの経験を小学生の時に体験したので、応用する機会もなく、次第に「あれはまずいのではないか」と思うようになった。学級新聞をWordで作るなんて機会があれば、おそらくワードアートを使っただろうし、中高生になって見た時にはそれは偉大な黒歴史になっただろう。

 では、シニアの方が同じ経験をしたら?

 パソコン教室を卒業したての、60代の男性がいたとしよう。「パソコンを使えるようになった」と町の同世代の住人に語ったところ、「ゴルフ大会のチラシ、作ってよ」と頼まれた。さてどうするか。家にあるのは、買いたてのパソコンに、インストール済みのWord。男性は、パソコン教室で書き連ねたノートを取り出すだろう。そして、Wordを勉強した時のページを読み返し、決意するのだ。

「よし、ワードアートを使おう」

 こうして、虹色のアーチ状に変形した「ゴルフ大会」が完成する。

 恐ろしいのは、こうした状況において、「このチラシダサくね?」と指摘する人は、おそらく多くないことだろう。もし、Wordにさわったことのある人が、チラシを作った彼だけだとしたら、町内会はそろって彼の技術を賞賛するだろう。

 そして、「パソコンに詳しい人」として、別のチラシやパンフレットの作成が依頼される。こうして、ワードアートやポップ体を用いた印刷物が量産されていく。

 

 上記の流れはあくまで想像でしかないし、今やWordやExcelを十全に使いこなせるシニア世代だってもちろんいる。

 重要なのは、新しい技術を知った人間は、意味もなく実践したくなる、ということだ。これは決してWordに限った話ではない。手軽にふれられる技術ならば、おそらくどんなものにも起こる。ボカロだってそうだろうし、なんならブログだってそうだろう。

 ポップ体とワードアートの悲劇は、いたるところに偏在している。大事なのは、使われている技術を批判することではなく、「これを作ってしまった人はどういう人なのだろうか」という思いを馳せることだろう。そんな想像力を巡らせた時、新しい知識に浮かれてしまった人の悲劇を見出すことができるはずだ。