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うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

文法化する芽兎めう

インターネッツ イメージ CLIP

 芽兎めうに焼きごてを当てるなどする遊びは2〜3年前から見かけていた。僕も鉄とインゴットをアナルに突っ込まれて「め゛う゛は゛艦゛娘゛じ゛ゃ゛な゛い゛め゛う゛ーーーーー!!!!!!!!!!!」と叫ぶネタツイットには大いに笑わされた記憶がある。

 なので、今ごろになって社畜めうが量産されるとは思わなかったし、それに苦言を呈する人が現れるとは思ってもみなかった。ひなビタ界隈に接したことのない身からすれば、今日ホットになった「芽兎めうの社畜ネタ問題」に対しての印象はそんなものだ。

 ところで、社畜めう量産の経緯については、すでに流れをまとめているエントリがあるが、一方で量産の動機についてはそんなに言及がないとは感じた。

 とはいえ動機は「そう書けば一定のウケが約束される」というものに過ぎないだろう。それはマックで隣に座った女子高生に話させたり、メロスを怒らせたりするような、「ネタのテンプレート」であり、文字情報で偏りやすいTwitterでは「ウケを取れる文法」といえるだろう。

 つまるところ、ウソを吹き込まれる社畜の芽兎めうはキャラクターではない。「社畜めう文法」と読び得る規範であり、ともすれば例文的なパッケージだ。

 

 

ある人「めうちゃん[問題]だね」

めう「[問題]だめう」

ある人「でも[問題][困難な要素]だね」

めう「[困難な要素]だめう…」

ある人「そこで[解決法に見せかけた詐欺]をする」

めう「[解決法に見せかけた詐欺]

ある人「問題が解決されたぞ!」

めう「すごいめう!」

 

 このように書くだけで、現在進行形で量産される社畜めうツイートが完成する。要素を当てはめるだけでいい。喪中のあいさつの例文に故人の名前をはめこむようなものだ。基本的に、誰だってできる。

 

 この文法を用いる時、芽兎めうのパーソナリティやバックグラウンドなどを知る必要は一切ない。「語尾にめうをつける」「中卒並みの思考力でだまされる」という二点だけおさえれば、「芽兎めうはひなビタのキャラクターである」という事実すら知らなくても、社畜めうツイートは作れるのだ。「この子って音ゲーのキャラだったんだ」という驚きを漏らす人がいる事実が、その証左だろう。

 TOMOSUKE氏はこの様相を「形骸化したミーム然としたもの*1 *2」と表現しているが、実際に社畜めうは異様な勢いで拡散し、その語り口だけが文法として人々の中に根付いた流れは、ウィルスが広まっていくようにも見える。特異な語尾と、そこから連想される「頭の悪い」という事実無根なイメージが発達し、あたかも「オリジナルの芽兎めうの設定」として居座ろうとするところも、ウィルスの変異のようですらある。

 

 文法になってしまうキャラクターは、なにも芽兎めうだけに限らない。「がんばるぞい!」というセリフだけが拡散し、涼風青葉という名前はちっとも広まっているように思えない。金剛のように、ちょっとクセの強いしゃべり方のキャラが出てくれば、そのしゃべり方だけ瞬間的に拡散し、その文法だけ記憶される現象は、今も昔も起きている。

 文法に限らずとも、ほんの小さな要素だけを切り取り、培養させた、全く別のキャラクターが生まれることも珍しくない。紅美鈴が「中国」と呼ばれ、「中国」という呼び名だけが本名以上に拡散したことをおぼえてる人もいるだろう。思えば「中国」が拡散していった場も、ニコニコ動画というインターネットの繁華街だった。

 全く異なる解釈を「二次創作」と呼ぶ文化は存在するが、社畜めうはもはや二次創作・二次設定とすら呼び得ないだろう。そこにいるのは、語尾だけを切り取り、「中卒じみた知能」というイメージだけを培養した、文法としか呼び得ない概念だ。まちがってもそれは、キャラクターではない。そこにいるのは、めうの語尾だけを模倣した、ただのインターネットの住人なのだ。

 

 どうにせよ、「新しい文化」と賞賛できるような代物ではないし、近いうちに廃れるのだろうとは思う。メロスやマックの女子高生、そして使い捨てられたヘスティアなどが暮らすイメージの墓所へと、社畜めうも旅立っていくだろう。

 ふと、『虐殺器官』の冒頭を思い出す。

ぼくはうなずき、母さんとともにかなたの死者たちへと歩いてゆく。最初に学校へいったときも、こうだったっけ。ぼくは懐かしさに涙を流しながら、母さんとともにゆく。すると隣には、さっき轍に顔を突っこんでいた、頭を弾丸で撃ちぬかれた少女と、背中を撃たれ、腹から臓物をこぼしていた少年と、穴のなかで燃やされていた人々がいて、ぼくらといっしょにかなたの死者たちにくわわろうと歩いている。

  我々がインターネットではしゃぐたび、死者はひとりまたひとりと増える。行進する彼女らの名を記録してやることが、せめてもの弔いになるだろうか。