うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

みんなでサイコロを見守る楽しさ 〜ランダムが「運ゲー」と呼ばれない境界はどこか〜

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ランダムという要素で少し前に論争が起きた。艦これの話である。

やれ「運ゲー」だの「運以外の要素を塗りつぶせ」だの、そういった話でかなりの論争になった。というより、定期的にこの手の話題は噴き上がり、即席のディスカッションが開かれるものだ。

 

そんな中、こちらの記事が現れた。 

dottyanen79.hateblo.jp

非常に感銘を受けた。そう、「運ゲー」という言葉は、往々にして批判的文脈で繰り出されるものなのだ。「運任せの結果」は本来、「物語」として好意的に受け止められるのだ。

こちらを読んでいて、先日「艦これTRPG」を初プレイした時のことを思い出した。正直、今までのどんな艦これ媒体よりもおもしろかった。その理由として、やはりサイコロの出目でものすごく盛り上がったことが大きいなと感じた。

サイコロから生まれる物語は、TRPGにおいては参加者全員に共有される。ここで生まれる「物語」とは、共通体験と言い換えられる。共通体験は「みんなで参加している」というインタラクティブ感につながる。

インタラクティブ感とランダム性がつながった時、人は好意的に「運任せ」を受け止められるのではないだろうか。

 

 

ランダムな即興劇で笑うひとびと

ぼんやりNHKを見ていると、震災がらみのスポット番組が流れることがある。

ある番組では、ロクディムという即興劇団が、被災地の学校で即興劇を開くというものだった*1。生徒が紙になにか単語を書き、それを劇団がステージ上にまいて、拾い上げて即興でセリフにするというパフォーマンスだった。ランダムでとんでもないセリフが飛び出し、しかもそれが自分たちの書いたもの。生徒たちはひたすら爆笑していた。

ランダム性が織りなすおもしろさだ。そして、このランダム性には、観客に「自分たちが選択要素を作る」という権利が与えられている。一方的な観劇ではなく双方向的な観劇が、一体感のある笑いを作るのだと思う。それはまさに、「みんなで即興劇を作る」という共通体験だろう。

 

 

無作為なサプライで泥仕合を

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学生時代はとにかく『ドミニオン』で遊んでいた。一般的ダメ大学生の麻雀と同頻度で遊んでいた。もちろん講義はサボった。

『ドミニオン』は、財宝カードを使って勝利点カードや「アクション」という魔法カード的なものを買い集め、自分でデッキを構築していくボードゲームだ。基本のセットだけでも遊べるが、拡張セットを適宜購入すると、遊びの幅が広がっておもしろい。

この『ドミニオン』では、場に出ている10枚のアクションカードを自由に購入できるが、裏を返すとゲームスタート時に10枚しかサプライとして置けない。そして、アクションカードは現在100種類を超えている。

この10枚をどう選ぶか。各セットには「推奨サプライ」という、「これならバランスのとれたゲームになりますよ」というアクションカードの組み合わせが用意されている。たしかに、推奨サプライは安全だ。しかし、時には危険に満ちた旅に出たい時もある。

ランダムでサプライを決める。

それは、バランスのとれたゲームになるか、マゾゲーになるかを決める、ゲーム前の大博打だ。

魔女 海の妖婆 不正利得 詐欺師 拷問人

大衆 村 道化師 略奪者 狂信者

分かる人には説明不要だろう。分からない人に説明するなら、「20ターン以上続く泥仕合」である。

このようなサプライが現れた時、参加者全員がゲーム開始前から敗戦の気分を味わう。よってリセットすることもあるが、あえてこれで始めることもある。

ランダムの被害を全員で受ける。ランダムサプライは、「ランダムにゲーム仕様を決定する」という共通体験を生み出す。そして案外、この泥仕合を笑いながらプレイする光景も生まれるのだ。それは「みんなでこの泥仕合をもがこうや」というヤケ気味な「場のノリ」だ。

 

 

願いを込めて爆ぜるサイコロに盛り上がる

艦隊これくしょん ―艦これ― 艦これRPG 着任ノ書 (ゲーム関係単行本)

話を戻すと、艦これTRPGで一番盛り上がったのは、セッションで艦娘っぽく演じることではなく、サイコロを振るその瞬間だった。そもそも、誰もまともに演じる気がなかったので、「I`m Justice!!」と数分おきに叫ぶ大鳳が現れた始末だ。

そしてこのサイコロは、劇的ともいえる流れを生み出し、まるで名勝負脚本というものになったからこそ、盛り上がったのだと思う。

 

味方の攻撃が外れ、駆逐級や軽巡級の攻撃が直撃。

5人中2人が大破。敵は健在で、残り1巡を残すピンチ。

そこからサイコロがほとばしり敵を轟沈。しかし最後に一匹残ってしまう。

頼みの綱は、島風の雷撃のみ。その判定をサイコロに託し、投げた。

 

結果としては、この雷撃がギリギリ成功判定をたたき出し、見事勝利を収めたのだが、これが異様に盛り上がったのだ。

似たようなことは、おなじみ原作ゲームでもよく起こる。しかし、ギリギリの撃破に「サイコロが投げられるのをみんなで見る」というシーンが加わるだけで、参入感はぐっと高まるのだ。

そして、提督として見守るゲームとは異なり、TRPGはプレイヤーが艦娘=海に出るユニットになる。サイコロの出目は他人ごとではない。「自艦隊の誰かが沈む」のと、「自分/仲間が沈む」のとでは、当事者意識がまるで違ってくるはずだ。

 

問題になるのは、「ひとりでやるか、みんなでやるか」である。

ブラウザで艦娘を指揮するという行為は、どこまでいっても孤独である。いくらSNSで進捗を発信し、仲間と海域攻略情報を共有しても、所持するデータは自分だけのデータ、ただひとつだ。たとえ複数人でそのデータを動かしても、「人のデータ」という意識がある以上、全員で参画するという感覚は薄れがちだ。

一方で、TRPGで艦娘になり、全員で協力して深海棲艦を撃破することは、まぎれもない共通体験だ。そこにランダムが降りかかり、いい結果も悪い結果もみんなで共有することになる。みんなで共有したランダムは、「苦楽を共にした」理論によって、「よき思い出」に昇華し得る。少なくとも、一人で羅針盤を回し続けるよりも、その可能性は高いと僕は思う。

 

 

孤独に受け止めるランダムと、集団で受け止めるランダムは、性質が微妙に異なってくる。というより、「ひとりかみんなか」で、ランダムはその意味が変質していく。

複数人でランダムと対峙した時、ランダムが盛り上がる要素に化けることがあることは、純粋に興味深い。インタラクティブなランダム性は、よくよく考えれば、すごろくで十分に立証されているだろう。

「賽は投げられた」とはカエサルの言葉だ。「もう後には引けないから、やるしかないぜ」的なニュアンスの格言が一番息づいているのは、テーブル上のロールプレイなのかもしれない。先人にとっては覚悟のあらわれだが、今やその言葉は大いなる刺激に変わりつつある。