うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

感度を高めてアニメを観る

「箸が転んでもおかしい年頃」というが、その本質とは「感度が高まる」ということだと思う。

物事への感度が高まることで、チリほどのおもしろさが何百倍にもふくれあがる。「不安定な感情の思春期」とはつまりそういうことで、感受性が強い時期の扱いに気をつける理由なのだろう。

まぁ、それはどうでもいい。問題なのはアニメの話だ。

人は往々にしてアニメの「好み」を持っているが、これは単に合致するだけでは話は終わらない。「好みに対する感度」が高ければ、同じ作品を見ても人によっておもしろさが異なることがある。ロボットアニメがどうしようもなく好きで、ロボットが動いているだけで気持よくなる人にとって、ロボットアニメは普通の人の何倍もの快楽を得られるものになっているだろう。

思うに、1クールで多くの作品を観るより、感度の高い要素を持つ作品をどっぷりと見たほうが、幸福指数は高いのではないだろうか。ではどうすれば感度は高まるのか。「好みに対する感度」は、経験によって獲得し、また強化できるものだと、僕は考えている。以下、感度を高めるために考えられる方法などについて雑記。

 

 

方法1:「おもしろかった」という経験を積む

ロボットアニメを楽しいと感じるには、おそらく「ロボットが動くこと」そのものを気持ちいいと感じられればいい。シナリオも面白さに加味されるが、もしシナリオが凡百だった場合、ロボット感度が高ければ「ロボットがかっこいい!」という理由だけで視聴を継続させることができる。同様に「女の子がかわいい」ということが快楽に感じられれば、昨今の美少女動物園アニメも満喫できるだろう。

これらの感度は、過去に同一ジャンルを観た際の感想が関わっていると思っている。

子どものころにロボットアニメを見たら将来ロボットアニメに気持よくなれるか。必ずしもそうとは限らない。もし、子どものころに観たロボットアニメがどうしようもなくつまんなければ、「ロボットアニメはつまらん」という先入観を抱えて大きくなってしまう可能性がある。この状態になったら、事態はかなり絶望的である。

となると、質の高い作品に手を付けると安全に思える。ジャンルそのものが生来の性格で好きになれない場合でも、「へぇ、このジャンルもこんな作品があるのか」と感心できれば、好みの範囲を広げることにつながるだろう。

もちろん、ジャンルだけでなく、製作会社やスタッフ、出演キャストの感度も大事だろう。「この要素さえあれば何倍でもごはんが食える」という特性を自分の中に組み込めれば、後は自動的におもしろさが増幅されるだろう。

 

方法2:作品への理解度を高める

ある作品をぼんやり眺めていて、「この設定わけわかんねえ」とイライラした経験はあるだろうか。「わからない」という感想は、おもしろさを大幅に減じさせる厄介なシロモノだ。

このイライラを抑止するためには、作品に関わる知識を得るのが近道だ。

原作モノであれば、原作を読んで省略された設定描写を見る。専門的な話題が出てきたら、せめてWikipedia先生に尋ねる。抽象的すぎる描写に手を焼いたら、ブログやSNSで識者の解釈を手にとってみる。

こうして「わからない」要素をひとつずつ潰すことで、「この作品が理解できる」という感想を抱くことができる。数学の難問を解答できた時に得られる爽快感とまではいかないが、「なにかがわかる」という経験は、多くの人が気持ちよく感じるものだ。

そして、ひとつの疑問が理解できれば、連鎖的に謎が解明できる。どんどん作品の見晴らしがよくなり、次第に作品そのものへの好感度も高まるだろう。

 

方法3:アルコールでトリップする

自身の状態を変容させることで快楽を増大させることもできる。脱法ドラッグはもちろんよくないので、オススメはアルコールだ。

酒を飲むと陽気になるが、これは脳がマヒするだけでなく、ドーパミンの分泌を加速させているためらしい。専門家ではないので詳しくはわからないが、高田馬場ロータリーでウェイウェイしている早稲田生を見ていると、なるほどドーパミン全開なのだろうと思わされる。

実体験として、酒を飲みながら好きなアニメを見るとすごく心地よい。ワイン片手に『楽園追放』を観たら映像と音響だけで失禁しそうになったし、カティーサークのストレート片手に『たまこラブストーリー』を観たらいつも以上に感動して気がつけばビンが一本空になった。文字通り、興奮と感動を何倍にも増大させている状態だ。

アルコールの勢いによって、ささいなことで笑えるような状態ならば、普段はつまらない作品でも「十分に笑えるところ」を発見し、次第におもしろいと感じることもできるだろう。それこそ、テレビで箸が転がっただけで笑えるようになれれば、どんなアニメも楽しめるはずだ。

 

感動と信仰

ここまで「好みに対する感度」について、その獲得法とともに話してきたが、感度を高めることによる弊害もあると思う。入れ込みが強まるのだ。

過去の経験は、やはり印象深いものから順に想起されるものだと思う。そして、過去の思い出がよいものだとしたら、時間経過とともに美化されがちだ。感度を高めて視聴したアニメにも、同じことが言えると思う。

「やっぱさー!◯◯は最高だったわけよ!それに比べて××はさー!」

気に入らない作品を批判する時によく使われる物言いだ。この時、「よかったもの」として引き合いに出される作品は、少なからずその人の思い入れが存在する。極めて正確な論評をするのでもない限り、人が自分の声に絶対的客観性を担保させることは不可能に近い。

感度を高めて視聴することとは、視聴体験を強烈なものにするということである。強烈な体験は忘れにくく、思い出されやすい。その上、感情との結びつきも強いことが多い。そして、強烈さと感情との結びつきは、思い出されるほど強化される。

かくして、ある作品への思い入れが閾値を超えた時、いわゆる「信者」という存在になる。あるいは「おもしろかった」と通り越して「救い」ということばが生まれる。一定ラインを超えた感動は信仰に変わる。そして、感度を高めて視聴することは、信仰を生み出す引き金になるのではないだろうか。