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うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

Goose houseの光がまぶしすぎて、歌い手文化が陰に見えてしまった話

インターネッツ DIARY

光るなら

Goose houseはよい。とてもよい。直近の曲といえば『光るなら』だが、底抜けの開放感と明るさ、満ち溢れんばかりの「正」の気を全身に浴びてしまい、初めて聴いた時は両目から大粒の涙がボロボロこぼれていた。

 

そんなGoose houseは公式Youtubeチャンネルを持っている。


光るなら/Goose house - YouTube

「おいおいフルかよ、たまげたなぁ」と思わざるを得ない大盤振る舞いだ。CD音源とは異なり生演奏。こっちのほうがライブ感、合唱感、なにより「音楽を通してワイワイしている」という楽しさが伝わってきて、好きな人もいるかもしれない。

 

このチャンネル、単なる曲宣伝の場ではない。むしろ、宣伝目的ではなく、純粋に演奏を楽しんでいる感じの動画が多い。中には思いっきりネタ曲に走っているものもある。


俺ら東京さ行ぐだ/吉幾三(Cover) - YouTube

世の中にはいろんなIKZOがいるが、こんなオシャンティに演奏してみせるIKZOはさすがに類を見ない。しかも楽しそうだ。とにかく、楽しくセッションしている空気がありありと伝わってくる。

 

このノリを見ていて、ふと大昔の歌ってみた動画を思い出した。

 

 ニコニコ動画がRCぐらいのころに、歌い手というジャンルが定着を始めたと思う。そんな中で誕生したのが、組曲『ニコニコ動画』だ。それを、今となってはレジェンド級な知名度の歌い手で「合唱」してみたという体で、歌声合成動画がアップされていた。これがとにかく、僕にとっては衝撃だった。

「インターネットで合唱ができてしまうのか」

歌うことが好きな人たちが、ネットを介して合唱し、その合唱した曲をみんなで聞くことができる。そのワイワイ感、みんなでなにかをいっしょに楽しむ感が、当時高校生だった僕の心をすっかりわしづかみにした。

 

あれから4〜5年経ち、「歌い手」のイメージはすっかり様変わりした。やれオフパコだの、やれエメラルド割りだの、「歌い手」という肩書には、チンピラにも似た匂いがついて回っている気がする。

「歌い手」という肩書のまま、CDデビューしてしまうことも珍しくなくなった。巷には「歌ってみた」タグ出身のボーカリストが、ところせましと肩を並べている。そして気が付くと、僕は歌ってみた文化から離れてしまっていた。

そんな中、Goose houseという存在を知り、公式チャンネルと出会った僕は、ひさびさにあの頃のワクワク感を感じることとなった。

みんなで、ただセッションすることだけを楽しむ。その様子をせっかくだから公開しよう。そんな、初期の歌ってみた文化のノリが、随分と小奇麗になって舞い戻ってきたのだ。

 

Goose houseを歌い手文化の系譜に置くつもりはない。むしろ、Goose houseの持つ「正」の気ともいえる雰囲気は、歌い手たちとは真逆だと思っている。

ギターを、ピアノを、打楽器を持ち寄って、それを演奏しながら歌を歌う。しかも合唱だ。パート分けもされている。その光景は、大学のキラキラ系合唱・合奏サークルのそれに近い。オタクがのどから手が出るほど欲し、やがては諦める「光の国」そのものだ。

今の歌い手がやたら小馬鹿にされるのは、「単体の上手さ」や「自己陶酔さ」を重視している傾向があるからのように思う。ソリスト文化だ。特定の歌い手をアイドルのように崇める文化は、ソロが似合うからこそ生まれたのではないだろうか。そして、そうしたソロを崇める風潮は、ワイワイ楽器を持ち寄ってワイワイ合奏するのとは真逆のカラーだ。

 

Goose houseを見ていると、音楽を純粋に楽しんでいる気持ちが伝わり、見ているこちらも歌い出したくなる。そして、かつてニコニコ組曲を合唱していたころの歌い手たちも、たしかにキラキラしたものとして映っていた。

共通しているのは、見ていて本当に楽しそうだということだ。かっこよく歌い上げる歌い手と、楽しく歌い上げるGoose house。どちらもいいが、今の僕は『光るなら』を選びたい。こっちのほうが、かつてニコニコ動画で僕をワクワクさせたものに近いからだ。