うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

Twitterからはてなブログにやってきて気づいたこと

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ブログを本格的に更新するようになってから気づいたことがある。「ブログは自分の考えていたことが見返しやすい」という特徴である。

こんなことを思ったのも、Twitterを5年も続けていることが原因だろう。Twitterは即時性が強い。思ったことを、思った瞬間に発信できる。この手軽さと即時性こそTwitterの人気の秘訣だが、その代償として「記録性」が失われている。

時折、僕は自分の書いた記事を見返すことがある。特にゆゆゆ論記事などは、「あの時の自分はなにを感じていたか」ということを再確認することが多い。その当時から変わったこと、変わらないことなどを確認する作業は、「思考の変化」を読み取るために非常に便利だ。そして、この変化を感じやすいことが、ブログの特長なのだと最近実感している。

「うらがみらいぶらり」というこのブログの名前は、ほとんどノリで名づけたものだが、奇しくも最近は実際に「ライブラリ」として機能し始めているな、と感じる昨今。Twitterからはてなブログにやってきてから気がついたこと、このブログのあり方について、思ったことを書き残す。

 

 

立ち消える「つぶやき」

僕自身のツイートは、外部サービスによってログをとっている。しかし、ログをとったからと言って、それがリファレンスとして機能するとは限らない。

ツイートにはタイトルを与えられない。タグもつけられないし、辛うじて日付ごとにソートが可能なぐらいだ。

先日、「艦これを始めたころのツイートを探そう」と思って掘り返し作業を行ったが、これが実に難儀だった。なにせ「艦これ」とツイート内に入っているとは限らないのではる。「呉鎮守府に着任しました」という艦これプレイ開始直後のツイートを発見した時、「わかりやすく書けや」と自分自身に対して怒った。

こんなことを思っても、ツイートの内容は修正できない。誤字や誤謬に気づいても、それを正すことはできないのだ。そんなツイートが万が一拡散された場合、誤りを指摘されるのが嫌なら削除するほかない。

 

だから、Twitterは「思いを吐き出す」という用途に向いている。映画の感想、目の前で起きた事故の驚き、上司への不満、といったものを短く書き残し、自分の外へ放流する使い方が一番向いている。

強い感情は、プラスマイナスを問わず、ため込んでいると心に負担がかかる。「文字にする」という作業で自分の中から切り出し、どこかへ捨て流すことで、負担を軽くする。多かれ少なかれ、Twitterとは「感情のはきだめ」なのだ。

 

そういうわけで、Twitterは基本的に議論に向かない。多かれ少なかれ、感情が乗せられているからだ。それも衝動的感情であることがほとんどだから、本来自分が持ってる考えから逸脱することだってある。だから殴り合いのケンカになるのだ。

そして、自分の中から切り出す以上、ツイートした考えは忘れてしまうことがある。「いいアイデアだ!」とひらめいてつぶやいても、特に反応がなければ、「誰も反応がないもの」として忘れてしまう可能性がある。じっくり磨いて肉付けすれば、立派な像になるかもしれないのにだ。

 

思いつきに形を与えてあげるということ

発したそばから蒸発しがちなTwitterと比べて、ブログは長く形に残る。そのため、後から発掘するのが容易だ。

カテゴリタグから、日付から、そして検索エンジンから、とにかく様々な手段でブログの記事は発見できる。後から自分で見返すことなどたやすい。1ヶ月前に、放映開始直後のアニメに対して抱いた感想も、Twitterよりブログの方が再確認しやすいのだ。

 

そして、上でも記したように、過去の記事と現在の自分には差分がある。その差分を確認することで、変わった自分、変わっていない自分を読み取ることができる。

そう思ったのは、以下のブログを読んだのがきっかけだ。


ブログに「完成」という概念はない。その時の自分が感じ、考えたことを記した記録なのだ。そして、Twitter以上に長く、インデントによって区切ることができるブログは、Twitterよりは論理的に書き残すことができる。Twitterが「感情のログ」だとするならば、ブログは「思考/論理のログ」なのだ。

 

例えば、4度に渡ってリリースした「ゆゆゆ=ビビオペ2.0論」も、ゆゆゆに対する考えの差分と不変を見ることができる。

最初にゆゆゆ論を書いた時、「これはビビッドパンチ=安直なハッピーエンドを否定する物語だ」という考えすら、実は抱いていた。しかし、結果としては「安直なハッピーエンド」によって締められた物語だった。これについて、僕は「手放しで褒めたい」と書いている。「軸がブレブレだ」と非難されそうだけど、こういった差分を確認する作業は楽しい。そして個人的には、「考えを変える」という行為は、決して悪いことではないと考えている。

そして、二つの記事を見比べてみて、「最初から僕はビビッドパンチに注目してゆゆゆを見ていた」という、変わらない事実も見えてくるのだ。ひとつのアニメに対して、3ヶ月に渡って、何回かに分けて記した記事において、「最初から最後まで変わらない論点」とはいわば「その人の根本原理」である。差を確かめる中で、「自分の中で変わらない一本の軸」も見えてくる。自分という人間を知る上で、これ以上に明確な目印もないと、僕は考えている。

 

うらがみ集めてらいぶらり

パッと思いついたアイデア。僕はそれをよく「チラシの裏」に例える。

僕は根っこからの貧乏性なのか、余ったビラやプリントは計算用紙にしたり、アイデア帳としてクリップ留めしたりしていた。そして、これ以上となくよいアイデアが記してしまった裏紙は、わざわざバインダーを買ってまとめていたりした。

今も、そうした「捨てきれない裏紙」たちを、わざわざ買ってきたA3封筒に入れて保管している。僕の部屋はいつも紙の山で埋もれている。

「うらがみらいぶらり」というタイトルは、そういった自分の習性を、無意識の内に汲み取って名づけていたのかもしれない。自分でいうのもアレだけど、「個人のチラシの裏だけを所蔵した図書館」って、なんかおもしろいじゃないですか。そういった「チラシの裏の図書館」が、個人ブログの本質だと思ってます。

このブログの記事は、ライフハックブログや勉強ブログとちがって、とにかくしょうもないものばかりだ。だけど、それらはたしかに僕の中で考えたことたちだ。それぞれが、その時の僕の断片であり、僕の頭の中の足あとなのだ。

汚くて、見るにたえないものだとしても、僕はこの足あとを残していきたい。いつもそんなチラシの裏を大切に保存してきた身だ。できるかぎり、この「うらがみのらいぶらり」に、チラシの裏を積み重ねていきたい。

 

今後のおはなし

そうは言っても、ここ最近は「チラシの裏」ではすまない程度の記事ばかり増えている。この記事だって、すでに3000文字を超えている。そんな裏紙は捨てるにしたって不気味だろう。

なので、今後は「本当にしょうもない思いつき」も、ツイートにおさまりきらないものになったら投稿しようと思う。よくラノベに使えそうな設定や、二次創作ネタを思いついたりするので、そうしたものを雑にぶん投げたいと思う。

しかし、ガチな気持ちで書きなぐった記事とは分割したいという思いもあったりする。だから、「Publish/Clip」といったタグ分けなどで住み分けしようと考えている。そうなると、ヘッダーに上記タグわけ用タブを作りたくなったり。うーんHTML。本業でさわってるとはいえ、いい加減マジメに勉強するべきか。そもそもProにしないとできないかもね。