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うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

その艦娘の声はシステムボイスか 〜艦これアニメ1話所感〜

アニメ PUBLISH

満を持して、アニメ版『艦これ』が船出を迎えた。

新聞一面広告、吉野弘幸の投入など、そのあり様は放送前から「実質ビビオペ」「ポストビビオペ」などと言われ*1、タイムラインをにぎわせる話題となった。そして、艦これアニメは現在進行形でインターネット全体に議論の種をばらまいている。

ある人曰く「一航戦誇りの当たり前体操」と。

またある人曰く「ねじ込まれた原作ボイス」と。

さらにある人曰く「娘の授業参観」と。

ゆゆゆなど比較にならない広範囲で「艦これアニメの是非」について口論が交わされ、むしろこの光景の方がよほど海戦めいてはないかとすら思わされるほどだ。「好き」と「正しさ」が十字砲火を描き、戦況は今なお混沌としている。

なにゆえこのような状況を産んだのか。その原因は数多考え得る。なぜならアニメ艦これは、原作プレイヤー、アニメ新参組、エロ同人組、ミリオタ、弓道経験者、ネトウヨネトサヨ、魔法戦争帰還兵など、無数の種族が群雄割拠する戦場であるからだ。そしてそれゆえに、「この状況を産んだ原因」もまた無数に考え得る。それらを全て拾い上げるのは、困難と言わざるをえない。

本記事では、「僕が観測し、僕個人が感じた」という範囲に限定した上で、1/9(金)現在の艦これアニメに対する所感を記していく。

 

 

僕自身の率直な感想

まず、僕個人の感想を述べるならば、艦これアニメ1話は「箸にも棒にもかからない」というのが正直なところだ。

見どころはあった。冒頭の榊原良子による『五省』朗読、動く川内のかわいさ、ストパンじみた出撃シークエンス、一航戦誇りの当たり前体操……それらはたしかに見ていておもしろかった。

しかし、めちゃくちゃ引きこまれたわけではなかった。作画はよく、CGも違和感が少ないレベルだったので、映像的にはなにも問題ない。しかし、ビビオペ1話やゆゆゆ1話に感じた高揚感や、魔法戦争1話への絶句すべき感情はもたらされなかったのだ。

これは僕の好み(ないし「好み係数」)の話でしかないのだが、アニメ艦これは、一歩間違えれば『アブソリュート・デュオ』と同等の虚無だと感じた。*2

その要因は、そもそも僕が艦これのアクティブユーザーではないことが大きいだろう。ログインしたのは秋イベントが最後だ。その上プレイ中は常にミュートだ。めちゃめちゃ気に入る艦娘もいないし、艦娘でシコるヒマがあるならごちシコをする。そういうオタクである以上、艦これに対する「好み係数」がまず高くないのだ。

しかし、原作が特に好きでなくとも、シナリオや映像で視聴者を引き込むことは可能だろう。あるいはキャラの魅力で押していくこともできるだろう。実際、僕は夕立がかなり好きなはずなのだ。しかし、動く夕立が作中で魅力的だったかと言うと微妙である。

つまるところ、この1話は「普通」だったのだ。そして「普通」という感想は、人によっては「つまらない」で一蹴されてしまうものだ。「出来がひどい」ではなく、「良くも悪くも面白くもない」というのは、クソアニメにすらならない致命的評価である。

しかし、現に艦これアニメを絶賛し、「最高!」という感想を述べる人たちがいる。いったい彼らは、どのようにこのアニメを見ているのか。あるいは、どのような好みを持つ人なのか。ここで重要になるのが、ある人が残した「娘の授業参観」という指摘であり、紐解くポイントは「ねじ込まれた原作ボイス」である。

 

原作セリフの断絶文脈

艦これはブラウザゲームであり、区分はシュミレーションとされている。無数のキャラクターが登場し、その全てがCV付な上、多彩なボイスを有している。その上グラフィックも比較的豊富。これらの要素が揃いながら、基本プレイが無料というところが、おそらく人気の秘訣だろう。

そしてこのゲームには、実はグランドシナリオと言えるものがない。与えられているのは艦娘というユニットと、ルーレットで航路が決まる平坦なマップだけだ。シナリオにしたがってキャラクターが会話し、ナレーションが挿入されることはない。「物語にそったセリフ」が存在しない以上、艦娘たちの声は全てシステムボイスということになる。モンハンで大剣を振った時の「ハッ!」という掛け声と、ほぼ同じものだ。

当然のことだが、システムボイスはそのものは、ただの音である。例えば、加賀の「ここは譲れません」というセリフは、編成時、出撃時、航空戦開始時に発せられる。なにかしらのシナリオイベントに際して発せられるわけではなく、同じセリフを一回出撃するごとに何度も聞くこともザラだ。つまり、文脈を喪失したセリフなのだ。

艦これアニメへの不満点として挙がった「ねじ込まれた原作ボイス」は、これが原因である。アニメとはすべからく、シナリオに沿ってキャラクターが言葉を発する媒体だ。しかしながら加賀は、出撃前(=編成時)と攻撃開始時というゲーム中タイミングを再現しているとはいえ、全く同じセリフを二度発している。こんなゲームの細かいことを知らない人からすれば、「なんでこの人同じこと言ってんだ」としか思えないだろう。人の形をした壊れたジュークボックスとして、一部の人に加賀は受容されてしまったのだ。

他にも、1話では原作セリフを唐突に発する艦娘が続出した。「ぱんぱかぱ〜ん!」と言いながら砲撃する愛宕、暁の発言に「ハラショー」とだけ帰す響など、一部では発言理由が不明瞭なケースがあった*3。「なぜそのタイミングで?」と、アニメの内部だけで考えていった時、「ねじ込まれた原作セリフ」という感想が生まれるのである。

 

断絶に想像力を注ぎ込む

しかし、セリフの文脈断絶は埋め立てることができる。

簡単な話だ。「この子はこういう子なのだ」と理解すればいい。そうすれば、「このセリフはこういう時に発している」と理解でき、文脈が補填される。

しかし、艦娘たちのパーソナリティを理解しようとしても、なにせ艦これにはグランドシナリオがない。「物語内の動向」から人格を推測できないのだ。故に、残された素材である「ゲーム内ボイス」と「史実」から、彼女たちの人格を想像するしかないのだ。*4

察した方もいるだろう。このようなキャラクターの特性が、艦これの爆発的な二次創作を誘発しているのである。いかにもな言い方をすれば、「無物語が生む二次創作」である。

提示された要素から、見えない人格を想像する。それはこちらでも述べた通り、「己の趣向でキャラクターを変形させる危険」を孕む。しかし、そもそも無物語の権化たる彼女たちは、かなりの変形にも耐え得る構造を持っているのだ。そのため、同じ艦娘でも、人によって微妙にパーソナリティに差異が生まれる。

殊に艦娘において、上で述べた営みは多大な労力をともなう。そのため、よほど艦娘が好きな人か、艦娘を用いた物語を創りたい人しか行わないと推測される。エロ同人誌でシコるだけの人は、描く側が用意したパーソナリティ例だけ摂取すればいいし、ましてやユニットデータしか見ていない人は「人格を想像する」という発想すらないだろう。

このため、同じ艦これを見る人は、視聴前の時点で「艦娘の確固たる人物像が出来上がっている人」「艦娘の人物像がまるで想像できない人」の二種類に分けられてしまう。そして、前者は「あのセリフが!」と喜び、後者は「なんだこのセリフは」と眉をしかめるのである。

つまるところ、「ねじ込まれた原作セリフ」という感想を抱いた人は、そもそも艦娘に対して不勉強なのである。「このセリフ無理やりじゃねーか」と発したが最後、勤勉に艦娘の人格に思いを馳せてきた人は「なんと不勉強な!」と憤りを感じるのである。この落差こそ、艦これアニメをめぐる混沌の戦況の原因ではないだろうか。

 

「終わらない授業参観」か否か

以上のような人格の想像を、視聴者にある程度前提とさせる作品スタンスは、かなりの負担を強いる。「授業前にこの本読んでこい」と言ってるようなものだ。気力のない学生は、その時点で受講を取り止めるだろう。

しかし、2年目に突入した艦これというコンテンツには、すでに「私の艦娘像」を確立させた提督たちが大勢いる。なぜなら、彼らが艦これをキャラクターコンテンツをして盛り立てたからだ。そんな彼らにとって、推しの艦娘は「愛おしい我が子」に他ならない。それ故、外野から眺めた艦これアニメは「娘の授業参観」として映るのだ。

この温度差自体は、おそらく1話だけなら問題は少ない。そう、まだ艦これは1話しか放映していない。もしかすると、2話以降にはしっかりとしたシナリオが通り始め、我々を感動の渦へ叩き込むかもしれない。

しかし、全話が1話と同じようなものだったとしたら、艦これアニメを取り巻く今の状況は引き続き存続するだろう。終わらない授業参観は、我が子を持たない観覧者には退屈でしかない。

授業参観で終わるか、物語を生み出すか。どちらに舵を切るか、我々は慎重に見極める必要がある。

 

 

*その他の感想

・「一航戦誇りの当たり前体操」について

個人的には、あれはあれでシュールでおもしろい。あの姿で正規空母たちが並んで滑走してきたら、十傑集走り並みの破壊力があるだろう。

ちなみに、「大真面目なシュール」として、個人的には『NINJA BLADE』もオススメしたい。TOKYOの上空を飛ぶヘリコプター内部にズラリと並ぶNINJAたちは、圧巻の爆笑光景として映るだろう。

 

・夕立ちゃんについて

あまりにもぽいぽい言い過ぎて悲しみをおぼえた。しかし、これは僕の不勉強によるものであるため、かわいい夕立を観覧するために、夕立のパーソナリティについて考えていきたいと思う。というかこのぽいぽいの乱用っぷり、星空凛じゃないのか。

 

・ポストビビオペとして

残念ながら、1話時点ではポストビビオペの地位にはまだ遠いと感じた。ビビオペ1話のようなワクワク感が圧倒的に足りない。

しかしながら、不気味な笑い声の一色あかねを演じた佐倉綾音は、1話で8役を巧みに演じ分けていたし、ぞっとするほどの棒だった三枝わかばを演じた大坪由佳は、大北ペアをきっちりと演じ分けていた。これには感動した。ソウルイーター時代の小見川千明を知っていれば以後の小見川千明に感動するように、「ビビオペ声優も成長した」という感動がそこにあった。その点ではポストビビオペである。

*1:ちなみに「ポストビビオペ」は僕が発した言葉だ。

*2:『アブソリュート・デュオ』および「好み係数」については、こちらを参照していただければ幸いだ。「好み係数」の導入 ~『アブソリュート・デュオ』に虚無を感じた理由を探れ~ - うらがみらいぶらり

*3:単なる掛け声、鳴き声と言われればそれまでであるが。

*4:ただし、「プレイ中の動向」から、人格を想像することも可能である。ただし、この場合に母体となるのは「プレイヤーの主観的体験」であり、他人との共有が非常に困難である。