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うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

[総括]ビビオペ2.0としての「結城友奈は勇者である」

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「結城友奈は勇者である」最終話から、1週間以上経った。その間に、インターネットではゆゆゆの炎が燃え広がった。

「ゆゆゆ論壇」*1と名付けられたサイバースペースは、とにかくゆゆゆを批判するか絶賛するかの嵐であり、最終的に「正しさ vs 気持ちよさ」というどうしようもない対立構図へとたどり着いた。というより僕がその一翼を担ってしまった。元旦からはとにかくゆゆゆ大火災の中でひたすら踊っていた。

この荒れ狂う炎に驚き、悲しみ、あるいは喜んだ。よもや1話での話題性がほとんどなかったこのアニメが、まさかまどマギと並べて語られようとは。戸惑う反面、僕も火遊びに興じてしまっていたところがある。

だが、僕は本質的なことを見落としかけていた。

「ゆゆゆとは、ビビオペ2.0だったのだ」

今こそ原点に立ち返らなければならない。僕がこのアニメに見出したのは、かの伝説的大災厄にして、宇宙創成の光だったのだ。

勇者部たちの戦いが終わり、冬アニメが間近に迫った今、あらためて、「結城友奈は勇者である」という物語を振り返りたい。

 

 

ミスリードを誘発する物語

関東圏でゆゆゆ最終話が放たれた後、ハッピーエンドを賞賛する声もあれば、「あの要素はどうなったんじゃ」と詰め寄る人もいた。「大赦/大人はどうした」「神樹やバーテックスや勇者がわからずじまい」「友奈の人格が結局見えない」「日常は不要」「残酷さが足りない」……これらの文句、実際のところまったく正しい。

僕がこのブログで引き合いに出す『ビビッドレッド・オペレーション』というアニメがある。あのアニメとはなんだったのか、という問いに対して、先日このようなことを言われた。

「荒野にビビッドパンチだけが屹立している」

なるほど、たしかにビビオペとは「ビビッドパンチが唯一にして全て」という怪物である。それゆえに、「ビビッドパンチが気にいるかどうか」が全ての焦点となり、宇宙創成の光に涙するか、「クソオチ」と笑うかの二択になるのである。

では、ゆゆゆはどうか。ビビオペを引き合いにすれば、このように表現できると考えられる。

「豊穣な大地に、いろんな建造物が林立している」

その建造物こそ、上記に示した「大赦/大人」「神樹」「バーテックス」「残酷さ」といった諸要素である。ゆゆゆとは、無数の要素が乱立し、枝のように絡み合っている物語なのである。そのため、焦点を合わせる箇所によっては、「これが消化しきれていない」という結果を産んでしまうのである。そして、合わせる焦点は往々にして好みによって決まるので、おいそれと変更できない。

僕が幸福だったのは、ゆゆゆという物語を最初から「ビビッドパンチの物語」として見ていたことだろう。だからもし、ゆゆゆの終着点が円環の理になっていたら、むしろ僕のほうが呪いを撒き散らす存在となっていただろう。

ゆゆゆは主軸になり得る要素を複数配置したため、物語全体のミスリードにかかる可能性がおそらく高い。「主軸じゃないと判断したものはすぐに切り捨てる」というスタンスでかからないと、未完成の塔を登らされて徒労で終わってしまう。全編を通してミスリードが多数設置されている構造は、視聴者にかなりの負担を強いていただろう。

 

全ては人形劇が語る

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無数のテーマが乱立しているゆゆゆだが、最も基本的なスタンスは最初に提示されている。1話の人形劇だ。

友奈たちが園児たちの前で演じる、勇者と魔王のお伽話。その途中でセットが倒れてあわや大失敗となるところを、友奈はうまいことを言わず、真っ先に勇者パンチを放つ。そしてあれやこれやと「めでたしめでたし」となる。その展開に園児たちは無邪気に喜ぶ。

そう、この一連の数分の流れこそ、ゆゆゆという物語の要約である。「勇者パンチによって問答無用でハッピーエンドへ持っていきます」というスタンスの宣言である。

1話冒頭は、ミクロな視点で見れば、同じく1話の終わりで、勇者パンチによってバーテックスに風穴を開ける場面と連関している。この連関によって、1話は始まりと終わりが一貫した回となっている。それと同様に、1話冒頭と12話全体も、「勇者のパンチで全てをなんとかする」という相似形を描く。最初に描いた「勇者パンチ」という主軸を最後にも提示することで、ゆゆゆは強い一貫性を生み出しているのだ。*2

 

行って帰ってくる勇者たち

「力技を使ってでもハッピーエンドにする」という思惑が読み取れれば、自ずと勇者部たちが望むことも明らかになってくる。

彼女たちは勇者として、神樹の作った異界へと旅立ち、バーテックスと戦う。しかし、そのまま異界へ行きっぱなしになることは望まない。「なにがなんでも、人形劇ができるあの日常を守る」という強い意思とともに、彼女たちは戦い続けるのである。唯一、東郷のみが「全ての破壊」という結論にたどり着くが、そこは友奈が抱きしめ「友奈のことを忘れたくない」という本心を引き出すことで、日常を守る側へと引き戻すこととなる。

ゆゆゆを「新日常系」と呼ぶ風潮があり、その発端はゆゆゆプロデューサーの発言だった*3。「日常の尊さを再認識させる」という意味合いからつけられたと推測されるが、これに対し「いやでも日常の話じゃないよね」という意見も寄せられている。

そして、よくよく考えてみると、たしかにゆゆゆは日常系じゃない。「新」とつけようとも、津田沼を聖地にすえた『きんいろモザイク』を知っている我々には、「神世紀」と呼ばれるゆゆゆの四国はまったくもってファンタジーである。

それゆえ、ゆゆゆという物語はファンタジーに区分され、その目的が「日常の奪還・守護」である、と判断した方がいいだろう。そして、そんなファンタジー作品は数多存在する。つまり、ゆゆゆに似合うのは「新日常系」ではなく「王道」という肩書なのだ。

ファンタジーの王道。それは「行って帰ってくる物語」である。そのため、勇者部たちは日常を守るために力を尽くすが、決して樹海にとどまることはない。彼女たちの最終目的は、「守り抜いた日常への帰還」なのである。そして「日常」とは、出発点たる1話冒頭のような、みんなが五体満足で過ごす日々に他ならないのだ。だからこそ、最終話Bパートで散華した身体機能は回復し、友奈も植物状態から復活を遂げるのである。

勇者部たちは、こうしてもといた日常へと帰っていく。この際、外の世界やバーテックスといった問題は、「後輩へ託す」という形で保留される。「世界の救済」という点ではなにも解決していないが、勇者部たちの至上目的は「日常への帰還」である。片道切符で世界を救うのではなく、きちんと日常へ往復切符をつかって帰ってくることこそ、この物語の本質なのである。

 

誰かのとなりを歩む勇者になる

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さて、ゆゆゆのキーフレーズともいえる「勇者」についてである。先日、林檎亭ニキとサシで飲んだ際、「友奈の言う『勇者』と、神樹の『勇者』って、意味合いがちがうよね?」という話になった。そこから、僕なりの「ゆゆゆの勇者像」を想像したい。

友奈は東郷とともに、風の勧誘を受けて勇者部に入部する。この時の風は、大赦の依頼を受けて「勇者適性の高い少女の集まり」として勇者部を作り、二人を誘っている。つまり、神樹・大赦が提唱する勇者として、友奈は勧誘されたのである。

だが、そんな思惑を知らない友奈にとって、「勇者」とは「かっこいい」というイメージが真っ先にくるものである。そこから入部後に待つのは、いわば街や学校のボランティア活動だ。地味で大変な仕事ばかりだが、川のゴミ拾いをしながら、友奈は「私は勇者になるー!」と朗らかに宣言するのだ。そしてやがて、彼女の中の勇者とは「みんなのためになることを勇んでやる」存在として定義されていくのである。

このような勇者像、僕が最近連想するようになったのはアンパンマンだ。

アンパンマンは言わずもがな、バイキンマンをやっつける正義の味方だ。しかし、彼の普段の仕事はパトロールであり、困ってる人の手助けであり、泣いている子に自分の顔を分け与えることである。いわばみんなのためになることをやっているのである。そして、彼の行動は「身近なみんな」の存在が前提となっている。

友奈が勇者部でやってきたことは、川の掃除や部活の手助け、迷い猫探しなどである。彼女は常に「みんな」に目を向け、「みんな」のために行動する。だが、その「みんな」とは、活動内容からも察せられるように、学校や街を土台にした「身近な人たち」を指していると考えられる。本当に「無差別にこの世界全員」のために生きたいと願うなら、彼女は大赦で働くことを志すだろう。

身近なみんなのためになることを勇んでやる。友奈にとって、バーテックスとの戦いは、川の掃除の延長線上だったのではないだろうか。2話でも「これからも勇者部は変わらない。ちょっと大変なミッションが増えたけど」と言っているあたり、その可能性は十分に考えられるのではないだろうか。

そんな彼女にとって、最大の身近の人たる東郷が苦しみ、涙を流すことは、彼女が目指す勇者像に反することである。そのため、11話で再び東郷の涙を見た友奈は、一時的に勇者に変身できなくなるのである。だからこそ、再起して東郷の前に立った彼女は「東郷さんを守る」と宣言し、無根拠に「忘れない」と言い通すのである。記憶を失うことへの恐怖を否定し、自分が隣にい続けることこそ、彼女の心を救うことにつながるからだ。

こうして、最も身近な人の心を「世界との心中」から救い上げ、身近なみんなである勇者部たちを日常に送り返し、その代償として友奈は廃人となる。「みんなのためになることを勇んでやる」を体現した結末だが、もちろん勇者部にとってよい結末ではない。だからこそ、同じ勇者として、勇者部として日常を守った4人は、「友奈といっしょに文化祭で劇をする」という願いをかかげ、友奈の役を残した上で芝居の練習を続けるのだ。

そして、東郷が「明日への勇者へ」の台本を朗読することで、友奈は復活する。なぜなら、彼女はかつて鷲尾須美という名で戦い、一度は記憶を失ってひとりぼっちになった勇者だからだ。孤独に怯え、友奈に無条件で「孤独であること」を否定され救われた彼女だからこそ、「結城友奈は勇者である」と祝福する台本を読み上げることで、友奈を帰還させることができるのである。*4

こうして、五体満足になった勇者部たちは、「明日への勇者」というお伽話を舞台で演じる。その最後に、友奈のセリフで物語は幕を閉じる。

そう、なんだって乗り越えられるんだ。だいすきな、みんなと一緒なら!

孤独に歩むのではなく、みんなの中で、みんなとともに歩んでいく。誰かの隣に立つ勇者のあり方を示し、肯定する物語こそ、「結城友奈は勇者である」というアニメなのではないだろうか。

 

ビビッドパンチがもたらす幸福

基本に立ち返り、ビビオペ2.0としてのゆゆゆを改めて見ると、ビビオペの諸問題はかなり解決されている。

ビビオペが茶番扱いされたのは、友情があまりに適当に描かれていたからだ。全ての鍵となるはずの、あかねとれいの友情は、たった1回のお泊り会だけで結実する。れいとその他3人のビビッド戦士との友情は、かけらも描写が存在しない。それでいて最後は4人全員で「友だちだよ!」とれいに告げる。友情とはここまで安いのかと思い知らされる。それと比べて、風と樹の姉妹愛勇者部に孤独を埋めてもらった夏凜、そして友奈と東郷の友情は、ビビオペなんかよりもよっぽどよく描けているし、「友情が世界を救う鍵。」というフレーズもよく似合う。

しかしながら、ビビッドパンチはなんだかんだそのままである。

問答無用のハッピーエンド。それは高確率でデウス・エクス・マキナとして批判の対象となる。ゆゆゆも「ハッピーエンドなのはいいけど無理やりじゃね」という指摘が存在し、事実その通りだ。さらに言えば、散りばめた世界観などの要素は回収せず、枝葉末節に目を向ければ、批判の矛先は数多いだろう。

悲しいかな、ビビオペ2.0といえども、ビビオペはビビオペである。これは残酷な根本原理である。しかし、ビビッドパンチなくして、ここまでのハッピーエンドはありえない。これもまた事実だ。

 

思うに、ゆゆゆとは「ビビッドパンチをどこまでいけば使っていいか」というテーマで行われた実験の場だったのではないだろうか。

ゆゆゆ最終話のビビッドパンチは、勇者部全員が「日常を守りぬいて帰還する」と願ったことによって発動している。そして、全員が深い(と十分判断し得る)絆で結ばれている中で、世界の状況と、さらなる身体機能の欠損は、すでに解決困難になっていた。

どうあがいても絶望な状況。それをひっくり返し、基本スタンスたる「日常への帰還」を全うするためにビビッドパンチは撃たれた。いわば、ここまで詰みな状況をなんとかするなら、ビビッドパンチの起動は十分に承認されうるのではないだろうか。もちろん、「全部元に戻す」のではないという条件つきだが。

そして、絶望から幸福への転換はカタルシスをもたらしてくれる。移動量が大きくなればなるほど、カタルシスも大きい。全員祀られENDの危機から、五体満足文化祭ENDへたどりついたことを祝福する声は、決してゼロではない。

さらに付け加えるとすれば、この転換は理屈抜き方がいいのではないだろうか。一から十まで説明される幸せももちろんあるが、「生きててよかった!」に集約される幸せもまた存在するだろう。無条件の生の祝福は、原始的幸福と感動を呼び起こす。誰もが赤子のころに、誕生を祝われることと同じである。

ビビッドパンチは、あらゆるロジックを破壊し、「みんなが生きていることはすばらしい」という究極のエモーションをもたらす。「バカの思想」とも呼べるが、たまにちょっとぐらいバカであった方が、人生を前向きに進めるだろう。あかねのように、友奈のように歩めば、きっと人生は明るいだろう。その歩みは決して無能・無知の歩みではない。

あまりにも宗教じみているが、ビビッドパンチは実際、一部の人々には救いとなった。ビビオペは、少数であったかもしれないが、誰かしらの心を照らしたのだ。そして、物語上の問題を改善しつつ、再度ビビッドパンチを使ってみせたゆゆゆは、あるいはさらに多くの人の心を照らしていくだろう。

理屈の先にある幸福。結城友奈は、ビビッドレッドから受け継いだビビッドパンチをもって、それを再び示してみせた。

その上で、ゆゆゆという物語を総括すると、こうなるだろう。

 

結城友奈は勇者である。

そして、「結城友奈は勇者である」はビビオペ2.0である。

 

 

*おわりに

僕個人は最後の宗教じみた救いやエモーションこそビビオペ・ゆゆゆの本質だと思ってはいるが、さすがに冷静に見ると気持ち悪いものがある。本物の宗教みたいだ。だけど多分、誰かと対面で会った場合でも同じことを言いそうだ。

幸福の話以外でビビッドパンチの話をするなら、「問答無用のハッピーエンド」は「安直なバッド・ビターエンド」の逆張りであり、理詰めな終わらせ方の否定でもある。ビビオペに続いてゆゆゆまでこの終わらせ方にした事実は、もしかすると「増えすぎてるバッド・ビターエンドへの警鐘」なのかもしれない。「不幸にしたり残酷にすりゃいいもんじゃねえぞ!」的な。

特に、まどマギとは(あらためて言うが)徹底的に逆張りだ。まどマギの円環の理は、理詰めの果てに究極の理詰めでたどり着いた一手なんだけれども、少なくとも「魔法少女・変身ヒロイン」としてはかなり異質だということを、割と忘れがちになってる。「本来このジャンルって問答無用でハッピーエンドにしちゃうんじゃないの?」ということを、ゆゆゆは思い出させてくれる。

とはいえ、物語的には雑味が多くなったのも事実。大赦とか神樹の設定には、今後の説明があるのかどうかについては、ゆゆゆ全面賛成派としても気になるところではある。そのためのVitaゲームになるか、あるいは新たな勇者か。とりあえずゲームは予約しようと思っている。

兎にも角にもゆゆゆはかなり「納得出来ない」という人が多く、そういう人は結構理詰めなところがあるので、こちらとしては「おっしゃるとおりです」という他ない。実際事実だし、「やっぱりビビオペか」みたいな悟りも僕自身、開けてきている。

それでも僕はどうしてもゆゆゆが好きになってしまったし、ビビッドパンチ抜きにはできないなという思いに至っている。このアニメはとにかく「生きること」を肯定してくれるのだ。そんな僕が、どんな風にゆゆゆを楽しみ、光を見出したのか、参考にしていただければ幸いだ。 

 

(cf)これまでのゆゆゆ記事

*1:非常に気持ち悪い言葉だと思うし、冬アニメに押し流されて消えてほしいものである。

*2:そして、「勇者パンチはビビッドパンチである」ということにこの段階で気づけば、ゆゆゆがビビオペ2.0として、ビビオペの諸問題をも、ある程度改善した物語であることも気付く。しかしながら、好き好んでビビオペを比較対象とする人は、おそらく少ないだろう。いるとしたら間違いなくキチガイだ。

*3:アニメ質問状:「結城友奈は勇者である」 ロケハンは香川でうどん巡り - MANTANWEB(まんたんウェブ)

*4:「東郷の朗読によって友奈が目を覚ます」という視点は、林檎亭ニキのゆゆゆ記事を読んで気づいた。結城友奈は勇者であるからあの結末でいいんであるというはなし | 林檎亭