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うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

最終回を想像するというギャンブル

ゆゆゆ最終話を前にした今、僕の心はさざなみのように穏やかだが、同時に津波のように荒ぶっている。

本当に楽しみなアニメの最終話を前にした気持ちは、熱中してプレイしたゲームがラスボス戦に突入する時のような高揚感と緊張感をおぼえる。それは、先に待ち受ける結末に対する期待感であると同時に、「もしエンディングが台無しだったらどうしよう」という不安でもある。そして、期待が高まれば高まるほど、不安も比例して大きくなってくる。賭けたチップが多ければ多いほど、外した時の損失も大きいのだ。

 

いま、ゆゆゆを前にして抱いているこの気持ちは、今年の春にも抱いた。ラブライブ!2期である。人生で初めて、リアルタイムで一本のアニメを追いかけ、その最終話もテレビの前で見届けた、僕の人生の中である意味記念すべき作品だ。

僕は当時、12話でただただ幸せになっていた。最高の展開だと感じた。だからこそ、最終話はそれを超えるだろう。最高のボルテージで、この物語に幕が降りるだろう。そう考えていた。

結論から言えば、ラブライブ!2期最終話は、大きな肩透かしで終わった。

道中まではよかった。しかし、土壇場の土壇場。花陽メールから卒業するはずの学校へ引き返し、まさかのミュージカル締め。目の当たりにした瞬間は驚愕し、5分遅れで戸惑いが訪れ、10分後に怒りに変わった。

「卒業させろよ」という、とめどない怒り。それは僕だけの心情ではないらしく、タイムラインは賛否で真っ二つに切り裂かれた。

なぜそうなったか。それは、僕自身の中に「最高の終わり方」を作り、「そうでなければ」という確信を抱いていたからだろう。「このように幕引きすべき」という盲信。言わずもがな、視聴者にすぎない我々にとって、このような考えは傲慢以外のなにものでもない。

結局、僕はそれから12時間近くかけて、「ラブライブ!2期は壮大な舞台劇だったのだ、宝塚だったのだ」という解釈を見出し、なんとか飲み込んだ。それでも後味は苦い。求めていたものははじけるような爽快感だったからだ。

 

アニメの最終話、とりわけオリジナルアニメの最終話を予想し、自分の中で形を与えることは、大きなギャンブルだ。

その型どおりにハマれば、これ以上とない快楽になる。かすれば多少の満足感になる。だが大きく外した場合、期待は大きな失望に変わり、一転して作品への非難が噴出するだろう。そうなってしまったら、とてもかなしい。

僕がラブライブ!の一件で学んだことは、「どんな終わり方でも、それがその作品の終わり方だ」と受け止めてあげるべき、ということだ。

もちろん、魔法戦争のような完全投げっぱなしジャーマンを受け容れろ、ということではない。本当にクソな終わり方はたしかに存在するし、そんな作品は「クソアニメ」と糾弾するべきだろう。

最も気をつけるべきは、「自分の思ったような終わり方でなかったこと」に腹を立て、作品を責め立てることだろう。それは主観的な物言いでしかない。作品は我々のものではないのだ。

だから、作品を楽しむために大切なことは、「その終わり方で納得のできる視聴角度を探る」ということだろう。どんなスタンスなら、この作品を納得して受け入れられるか。自分の信念を捻じ曲げることにもつながりかねないので多用は避けたいが、最後まで歩んだ作品と、最後まで見届けた自分を祝福するためにも、一度考え直す機会を設けるべきだろう。

 

正直なことを言えば、上に記したことがブーメランで帰ってきそうなほど、ゆゆゆは終わらせ方が読めない。

想像はつく。だが、そのエンディングは既存作品の延長か、「俺ならこうする」という二次創作ばかりだ。少なくとも、まだ最終話が封切りされてない今の時点では。

ゆゆゆこと、「結城友奈は勇者である」は、本当に大きなコンテンツになったと思う。こんなに注目され、円盤が蒸発し、なによりこのブログを半ばゆゆゆ考察ブログにしようとは、番宣PVを見ていた時には思いもしなかった。

船員が多くなったコンテンツは、転覆した時の被害も甚大だ。転覆から生還したかどうかで優劣をはかりたくはないが、「せめて笑って帰りたい」と思うのも人間の性だろう。笑って帰るには、まずは作品の提示したルート通りに歩めばいい。ルートの正誤を問うのは、その後でも遅くはないだろう。