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うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

データを紙にするということ

DIARY

世間曰く、今日は「紙の記念日」なのだそうだ。王子製紙の前身が1875年に創業を開始したことが由来らしい。今週のちょっとしたトリビアだ。

 

紙と言えば、僕が高校1年生くらいまでは、「Webページの印刷」が習慣・文化として辛うじて残っていた。ブラウザから「印刷」を選択し、プリンタから微妙に色あせたWebページが出てくるのを待った。よくインク切れでひどいことになったものである。

高校時代の僕はわるいゲーマーだったので、プロアクションリプレイを常用していた。ポケモンのレベルが999になったりするアレである。しかしアレ、機械単体ではどうしようもない。改造コードと呼ばれる英数字の羅列を入力することではじめて改造が実行されるのである。今もたぶんそうだろう。

改造コードは20ケタを軽く超える代物だったので、当然ながら手で書き写すと絶対に書き間違いが起こったし、必然と印刷するのが手っ取り早い伝達手段となった。仲間内でコードを探しては、それを印刷して共有する。今ならEvernoteかDropboxで事足りることだ。今思えば紙の無駄遣いにちがいない。

しかし、大量に印刷された改造コードの山を手に持つと、自然とこう思った。

「すごい情報量だ」

ゲームを書き換える魔法の英数字。当時の僕には英和辞書よりも貴重な情報源だった。大量とはいえせいぜい10枚程度だったと思うが、それをクリアフォルダに入れ、改造する際に取り出すたびに、「ここに僕の求める情報があるんだ」という、覚悟だかなんだかわからない気持ちを抱いたような気がする。

振り返れば、あの重みが一番楽しかったのかもしれない。「情報を手にする」という確かな実感がたまらなく好きで、しかもその重みが「みんなで探して積み重ねた」というのが、またたまらなかったのかもしれない。

実際、PCを持つようになり、スマホを持つようになってからは、なぜだかめっきりやらなくなってしまった。

 

同じような経験だと、やはりデジタル原稿の印刷が思い浮かぶ。

大学時代はひたすらキモオタサークルの会誌を編集し、たまに小説サークルに原稿を投げては完成品の製本物を受け取りに行っていた。個人的に書いた小説も自分で文庫製本してみたし、大学生活の最後は卒論製本で締められた。

サークル会誌は基本的にIllustratorで作ってたので、おおむねaiファイル、たまにPDFとして原稿は扱っていた。小説はもっぱらWordだ。卒論は3万字のdocxファイルだった。全部Macbookの液晶に映され、3000円のオサレデザインマウスを動かして編集されていた、デジタルなものだ。

それを印刷機にぶち込んだり、印刷業者にzipで送りつけたりして、最終的に本になる。製本され、表紙もいっちょまえにつけたそれらを手に取ると、思わず満足感に包まれた。

「お前も、立派に本になれたなぁ」

ドライアイと戦いながらPC上で作ったものが、本という実体になって自分の手に握られる。そこまできて、ようやくひとつの「成果」になったと感じたのだと思う。

つまるところ、僕の根っこはアナログ人間なのだろう。肝心なことは紙とペンで書き留めていくのも、きっとアナログに残したい欲求なのだ。デジタルは嫌いじゃないし、むしろ好きだからSEなんて職業を辛うじて続けているのだろう。だが、スマートデバイスとクラウドネットワークに囲まれても、大事なものは紙として手元にあるのがいい。かさばるという実感が、たまらなく好きなのだろう。

 

今日も今日とてPCの前で、仕様のよくわからないプログラムとにらめっこをする。

仕様書通りに動かない。サーバのログは意味がわからない。そもそも仕様の全容を聞かされてないので「なにがわかってないか」すらわからなくなる。

そんな時に、クリアフォルダから取り出すのは、印刷された設計書やスキーマ表だ。ほとんどの場合、ミミズ文字めいた書き込みで埋め尽くされている。それを机の上に置き、肉眼で見つめると、なぜだか安心する。

「そうそう、こういうことなんだよな」

たとえ同じ書き込みが記されたPDFでも、こんな安心感は得られないだろう。紙の仕様書が手の中にあるだけで、情報が逃げていかないような気がするのだ。