読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

なぜ一人称「おいら」は腹が立つのか?

先日、僕のTwitterのタイムラインにて、フォロワーのひとりにクソリプが飛んでいた。

クソリプというものは、原住民の縄張りに入った冒険家が原住民に殺されるような、偶然の事故に近い。しかし、「そんなリプライをよこすな、殺すぞ」という掟を知らなかったとしても、あまりにもあんまりな言葉のよこし方をする人間は多い。そしてそういう人は、インターネット上では現実と比べ物にならないほどたくさんいる。

そういう人には、特徴はないのだろうか。先日見かけたクソリプアカウントには、次の言葉がプロフィール欄に記されていた。

「おいら」

言うまでもなく一人称である。だが、ただの一人称を示す単語なのに、僕はこう思ってしまった。

「こいつ、腹が立つな」

iPhoneの画面に表示された、たった3文字に対して、そう思ったのである。こんなアカウントがクソリプをしていると思うと、なおさら腹が立った。あまりにもムカついたので攻撃的なツイットを2つも放流してしまった。

「おいら」の持つ魔力は、一般的な想像を遥かに超える強大さを持っていたのだ。

 

なぜ、「おいら」はここまで人を怒らせるのだろうか。

「おいら」がもたらすイメージについて考える。「おいら」という一人称は、現実では絶滅危惧種に近い。「おいら」の使用者は半ばファンタジーである。そうなると、「おいら」を使う人間は想像する他ない。

「おいら」がもたらすもの。それは「田舎っぽさ」だ。

ポケモンをプレイしたことがある方は、トキワの森を想像してほしい。森の奥へ進むと、麦わら帽子をかぶったドット絵がバトルを仕掛けてきたと思う。

「おいらじまんのむしポケモンだ!」

むしとりこぞうだ。

麦わら帽子に、白のアンダーシャツと短パン。手には虫取り網。くりだすのはキャタピーやビードル。彼らは一様に「おいら」と口にしていた。

むしとりこぞうの名の通り、彼らは子どもだ。おそらく小学校低学年、高く見積もって4年生といったところだろう。そんな子どもが「おいら」と口にすると、どことなく憎めない、無邪気さを感じさせる。

だが、仮に先ほどのセリフを、今年で42歳になる、頭頂部が寂しくなり始めた、新橋勤務のサラリーマンが口にしたらどうだろう。

「おいらじまんのむしポケモンだ!(42歳・会社員)」

たしかに麦わら帽子をかぶっているだろうし、白のアンダーシャツだろう。しかし、下に履いているのはステテコだろうし、なにより腹巻きを装備しているはずだ。薄毛は帽子に隠れるにせよ、ビール腹はむしろ目立つ一方だ。

そこにいるのは、決して「おいら」とは口にしてはいけない、悲しい中年の姿である。

 

クソリプをしてしまう一人称「おいら」は、この「中年むしとりこぞう」のような歪な存在だ。

全員そうというわけではないが、中年は説教臭い。上から目線だし、目の前の相手の気持ちはあまり考えない。被害に遭うのは若手の部下だろう。

しかし、飲み屋で部下にあれこれ語る中年の一人称は、おおむね「俺」だろうし、「私」や「僕」という場合も考えられる。

だがもし、次のように話していたら、どうだろうか。

「おいらさ、最近の若者は、たるんでると思うんだよね」

なめているのか。まだ「俺」でしゃべってくれた方がありがたいというものだ。

もちろん、こういう光景は現実ではあまり見かけない。「おいら」は現代社会では絶滅危惧種なのである。

だが、インターネットではあまねく出現する。そこかしこで、「おいら」を一人称にしたおじさんたちが、お節介で意味不明なリプライを送りつけている。今すぐに駆除し、環境を整えるべきだと思わされるぐらい、「おいら」の被害は拡大している。

なぜか。インターネットでは顔が見えないことももちろんある。加えて、インターネットは新しい文化だ。そこに飛び込むと、なんだか若くなった気がするのではないのだろうか。

自宅でパソコンの前に座り、42歳新橋勤務のサラリーマンがTwitterのアカウントを作り、はじめてのツイートを投稿する。すると内心は、こう思っていたりするのではないか。

「いやー、俺も、インターネット、はじめちゃったなぁ。学生のころにギター始めたの思い出すなぁ。あのころのおいら、若かったなぁ」

無根拠な「若者らしさ」は心を浮足立たせる。そこにいるのは42歳の中年ではなく、まだ「おいら」を使っていたころの、むしとりこぞうだった自分なのだ。

 

人はインターネットを前にして、羽目を外してしまうことがある。いつもとは違う自分になったような感覚から、人はついつい「おいら」という一人称を使ってしまうことがある。

だが、インターネットは社会の延長線上でしかない。ましてやTwitterは”ソーシャル”・ネットワーキング・サービスである。姿形を変えた新橋駅前に過ぎないのだ。

そんなことに気づかないのに、「ソーシャル」という言葉を「つながり」と勝手に解釈し、会社で部下にするような上から目線「アドバイス」をしてしまう。しかも、上機嫌に「おいら」という一人称を使ってである。

むしとりこぞうは無邪気さを感じさせると述べた。しかし、「無邪気」は決して免罪符ではない。

子どもの無邪気な行いすら咎められることがある。「大人の無邪気」が受け容れられる場所は、そうそう多くない。