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うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

物語内における「神格」について

アニメ 物語構造 CLIP

(1) いわゆる「神話」と「神格」の関連性について

ここ最近、アニメを「神格」という概念で考えるのがマイブームとなっている。

アニメと「神」といえば、「エヴァは神話」などと言われたりしたことが連想される。最近だと「ラブライブ!という神話」と言われたりするだろうか。この場合における「神話」とは、社会学に絡んだり、あるいは本物の神話に絡んだりして論じられることが多い。だが僕のいう「神格」とは「神話」とは縁のないものとして定義している。

僕の言う「神格」とは、PC用語で言えば「管理者権限」と呼ばれるものである。いわば物語に対する「管理者」であり、その役割・能力は、物語の根幹的な設定にアクセスするというものである。

 

(2) 「神格」ってなにさ

物語の管理者権限を得るとどうなるか。具体例を挙げれば、キャラクターの意思で天気を操作することができる。

天気は人間の意思で操ることができない。それは物語においても同様である。しかし、フィクションではしばしば、キャラクターの願いや野望によって天候が操作される場合がある。雨天を晴れにする例がわかりやすいだろう。

このような「天候の変更」は単なる偶然ではない。キャラクターが「晴れ」を望んだから、物語内の天気は晴れになったのである。そのように考えるのが、僕の考える「神格」の基本ロジックである。

天気や政治といったものは、キャラクターの努力や気持ちでどうにもならない領分のひとつである。その理由は、「ヒロインの感情」といった表層的な設定に対する、通常はアクセスすることすらできない根幹的な設定だからである。Excelの起動は誰でもできるが、Excelのアンインストールは管理者にしかできない。天気や政治の操作は、Microsoft Officeをインストール/アンインストールすることと同じ行為であり、これを行える管理者権限こそ「神格」なのである。

 

(3) 「神格」によって動かされる物語

「神格」は、ほとんどの場合は主人公に与えられる。主人公に「神格」が委ねられた場合、物語は主人公の意のままに進行することになる。これが意味するのは、キャラクター主体の物語が成立するということである。

キャラクターが、キャラクターのために生み出し、進行させる物語。物語に対してキャラクターが「主」となるフィクションを、小説なら「キャラクター小説」と言うだろう。キャラクターの都合で物語世界が動くため、場合によっては「ご都合主義の嵐」と言われかねない。「神格」の行使は、このような物語を生み出すことにつながる。

ご都合主義を連打する「神格」の是非を問われれば、答えは「場合による」としか言いようがない。ご都合主義は物語を快適に動かす潤滑油であり、「神格」は快適さを創出させるためにキャラクターに与えられる。もし、快適さを一切排除する物語を作るならば、神格は作者が握ることになる。

 

(4) ラブライブ!における「神格」

概念的なものをしゃべり散らしてもしょうがないので、具体例を持ってくる。

「神格」の代表例として、ラブライブ!2期が挙げられる。1期はアイドルものでありながら、「1stライブに人が来ない」「雨の中ライブをして熱で倒れる」などの、普通ならうまくいきそうな場面で現実感を突きつけてくる展開が話題になった。では、その2期もまた現実感を叩きつける物語なのか。5話時点の推測では、「現時点ではその逆である」という判断を下せるだろう。

象徴的な一例が、1話の最後で「雨やめーッ!」と穂乃果が叫ぶ場面だろう。無謀のかたまりみたいな高坂穂乃果が「雨よ止め」と叫ぶと、なんと雨が止み、神田明神に陽の光が差し込んでくるのである。このシーンを「1期で雨によってダウンすることは神の拒絶であり、2期1話の天候操作は『神の超克』である(大意)」と某所で評価されていたが、僕はこの雨の停止を「神の超克」ではなく「神の内在化(=神格の獲得)」と見立てたい。つまり、穂乃果の領分ではどうしようもない現状を乗り越える物語だった1期を経て、それら全てを超えて「僕たちの奇跡」へと至る物語が2期である、という仮説である。「かなり大変だった1期を突破したボーナスステージ」とも言えるだろう。

2期1話で見えた「神格」の片鱗は、3話でも垣間見える。今まで手の届かぬ存在の象徴だったA-RISEが、突如として穂乃果の眼前に現れるという展開である。いわばスクールアイドルの「神」として君臨してきたA-RISEが目の前に現れ、穂乃果たちをUTXという神殿の中に連れ込んだのだから、穂乃果が「神格」を獲得したことの証左としては十分だろう。

 

(5) 無闇に「神格」を与えてはならない

高坂穂乃果が「神格」を得てラブライブ!を運営することには、個人的には異論はない。なぜなら、「神格」で進行する2期の前提には、1stライブに観客がこない1期が存在するからである。いわば1期という手続き(ないし儀式)を踏んだことで、穂乃果は正式に「神格」を獲得する権利を得た、と推測できる。誰でも管理者にはなり得ない。管理者になるための研修や資格は、本来は必須なのである。

しかし、作成陣の判断によって、不正に「神格」が与えられる場合もあり得る。法的に制度化がなされていない以上、仕方ないことだろう。しかし、その結果として「主人公の横暴によって進む物語」が量産されていたとしたら遺憾と言わざるを得ないだろう。

ここから先は個人的な偏見だが、その最たる例が某魔法科高校ではないだろうか。あるいは某ソードアートなんとやらではないだろうか。「思うままに物語を進められる主人公」は、かえって反感を招きやすい。この2作品についてきちんとした検討ができていないので、これ以上のコメントは差し控えたいが、「神格」の度合いが多少は絡んでいるのではないかというのが、僕の意見である。

いずれにせよ、「神格」という見立ては、物語の構造を切り分けるひとつの手段であると僕は考える。物語がどのように進められているのか。物語の進行権限・変更権限は誰が所有しているのか。そのような観点は、物語のスタンスを見極める一助になるだろう。