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うらがみらいぶらり

チラシの裏のアーカイブ

なにが「かわいい」で、なにが「スケベ」なのか?そのはざまはなにか?

CLIP えっちな話 イメージ

 常日頃考えているのは、「かわいい」と「スケベ」の境目とはなにか?ということである。

 例えば、以下のイラストを見た時に、どのような印象を抱くだろうか。

www.melonbooks.co.jp

 僕がなぜこれを載せたかといえば、たまたまTwitterのタイムラインに流れているのを目撃し、不意に海綿体のざわめきを感じたからである。

 つまり、僕はこのイラストを「スケベだ」と感じたのである。

 だが、イラストのタッチはどちらかといえばかわいい系だし、乳首も性器も露出されていない。少なくとも、対魔忍アサギのようなものではない。感度3000倍のアヘ顔は、ここにはないのである。

 だが、100%がかわいい(≒性的な要素は皆無)と断言はできない。巨乳に水着、首輪に誘うようなポーズ、赤らめた表情などは、スケベの文脈として見出だせる。

 「かわいいのにスケベ」

 そんな奇妙なイメージがある。だが、普段はそれを「奇妙」だとはほとんど感じない。それが、不思議なのである。

 

 ここでしばらく妄想を記す。例えば「巨乳」「パンチラ」「肌の露出」といった要素は、美少女よりのオタク文化圏では「かわいい」という意味合いを有しているような気がする。

 それらは、一般的にはセクシャルなイメージだし、公共の場ではお上品とはいえないものである。端的に言ってしまえば「スケベ」なのだ。だが、それを「かわいい」「萌え」などと表現する文化、文脈は、たしかにある。

 そして、それは突き詰めれば「個人の経験値」ともいえる。早い話、ネギま!で青春時代を過ごした人にとって、パンチラは「女性キャラクターのかわいさ演出」程度のものとしか感じないだろう。それは、表現に対する慣れの問題であり、ネギま!を不健全図書と感じるお母様方が怒り心頭になるのは、その表現自体に不慣れだからだ。

 人によって、「かわいい」と感じるか「スケベ」と感じるか変化すること。これはよくよく考えると興味深い。そして、「かわいい」と普段は感じているものも、見ように酔って「スケベ」と解釈することもできる。それもまたおもしろい。

 「かわいい」と「スケベ」は地続き。そんなことを感じるのである。

 

 では、上掲のようなタペストリーを買い求める人は、それを「かわいい」から買うのか。「スケベ」だから買うのか。「かわいい」と「スケベ」、どちらに重きを置いているのか。

 あるいは描き手の側は? 「かわいくてスケベ」なイラストを記す時、それを「かわいい」のアウトプットとして描くのか? 「スケベ」のアウトプットとして描くのか? あるいは、その両方が入り交じった感情か?

 買う人でも描く人でもない自分には、このあたりの勘所がつかない。そして、興味をそそられる事象でもあるのだ。

 

 もう少しきっちりまとめたいのだが、今日からFGOのイベントが始まってしまうので、とりあえず問題提起だけ書き残しておく。

 あっ、どうでもいいけど20連でイシュタル2枚引きました(自慢)

ゼロ年代への「帰還」 ~『劇場版 艦これ』感想~

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 11月26日。満を持して、巨大な泥舟が出港を果たした。『劇場版 艦これ』のロードショーである。

 振り返れば、『シン・ゴジラ』『君の名は。』などなど、今年は邦画が大当たりの連チャン状態。つい先日も『この世界の片隅に』が好調な滑り出しを見せている。そういった情勢の中で、KADOKAWAが誇る決戦兵器の、記念碑的な失笑を誘ったアニメ作品の劇場版上映である。否応にも注目が集まるものである。

 初日からステキな感想が乱舞し、僕の観測範囲においても、歴戦の勇者たちがこぞって、この見え透いた鉄底海峡へ出航していった。そして僕も真偽を確かめるべく映画館へ足を運んだ。以下は、そのおぼろげな航海日誌である。

 

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膝の上にユリエ・シグトゥーナ

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 やはり、「膝の上に座っている感覚を想像しやすい二次元のキャラクター」として、ユリエ・シグトゥーナは外せないと思う。

 ユリエ・シグトゥーナが、『アブソリュート・デュオ』(MF文庫J刊行、2015年アニメ放映)に登場するメインヒロインであり、銀髪赤眼で貧乳、北欧のギムレーからやってきた日本語はペラペラだけど書くのは苦手で、焔牙<ブレイズ>は双剣<ダブル>、九重透流の絆双刃<デュオ>であり、好物は透流の淹れたアップルティー、返事は「ヤー/ナイ」であり、寝る時はワイシャツをパジャマにして寝る、というキャラクターであることは各位もご存知の通りだが、作中で「西洋人形」という比喩表現があてられたことから分かる通り、美少女のデザインとしては人形寄り(≒精緻、浮世離れ)を志向している。

 そんな「人形」としての物質性も影響してなのだろう、ユリエ・シグトゥーナはかなり「膝の上に座っている感覚」を想像しやすい。仕事中に暇になったら膝の上に召喚できるレベルである。手順を記そう。

 

  1. 息を深く吸う。
  2. 息を深く吐く。
  3. 「ユリエ・シグトゥーナちゃん…」とチャントする。
  4. 耳元で鈴を鳴らす。

 

 慣れないうちは上記の手順を繰り返しながら、手近なアヘンでもつまめば容易に実行できる。そして慣れれば脳内で「ユリエ・シグトゥーナちゃん…」とチャントすれば、概ね膝の上に彼女が現れる。

 とはいえ、ユリエ・シグトゥーナが僕らの膝の上にちょこんと座る空間が、IT土方が詰めるオフィスビルの一室であってはならない。彼女の召喚とは、すなわち己が認識する世界の変容と同義である。

 想像してみよう。僕の膝の上には、ユリエ・シグトゥーナが座っている。銀色の髪は枝毛のひとつも見当たらず、まばゆい輝きからは、鼻をくすぐるような甘酸っぱい香りがただよう。ちょろんと前へ出たはねっ毛は、犬のしっぽのようにぶんぶんと嬉しそうに揺れている。テレビを見ているのだ。きっと動物番組だろう。犬がじゃれ合う映像を見て、表情はいつものきょとんとした顔つきだが、内心ではものすごくウキウキしているはずだ。そんな彼女のぬくもりを膝先で感じながら、昊陵学園の寮の一室でおだやかな時間が流れていく。ふと、ユリエはこちらを向き、おだやかに話しかける。

「ユウ(僕の名前*1)アップルティー、飲みたいです」

 こうして世界は一瞬だけ昊陵学園の一室に変貌し、時間帯は『ダーウィンが来た!』とかがやってる夕方となり、目の前からはユリエ・シグトゥーナの香りが生まれるのである。

 

 

 だからなんだという話だが、やはりアゾン製ドールに『アブソリュート・デュオ』ではなく『学戦都市アスタリスク』を持ってきた*2のはどう考えてもミスジャッジだし、MF文庫Jが無能なのか、デュオはやはりその程度の作品なのか、疑念が深まる一方である。

 そして、その怒りを鎮めるために、また膝の上にユリエ・シグトゥーナが座る。

*1:ただし僕の名前は「ユウ」ではない。

*2:たとえば、 キャラクタードール::商品詳細

制服なき人生を征く

DIARY

 まことに唐突な話だが、僕は人生で制服というものを着たことがない。

 幼稚園はたまたま私立で、みんな私服で通わされていた。小学校にも制服はなく、吊りスカートの女児というものとはまるで縁がなかった。中学と高校は中高一貫だったが、これが制服なしというトンデモ学校であり、思春期をブレザーも学ランも知らずに育ってしまった。大学に制服があるはずもなく、勤めだした会社も私服通勤OK、というオチである。

 計画してそうなったつもりはない。ただ気がつけば、僕の人生において、制服というものはまるで登場しなかったのだ。

 「なんて自由だろう」と羨む人もいるだろう。だが当人としては、これは勲章でもなんでもない。人生の大いなる欠陥である。

 つまるところ、「制服」に関わる話題にほとんど共感できないのである。

 

 世の学園モノの作品をご覧なさい。学園である以上は、まず生徒は制服を着る。この時点で爪弾きに合うのだ。教室でぼっちになる以前に、校門をくぐることすらできないのである。

 隣の同僚に耳を傾けてみなさい。「高校のころの制服が押入れから出てきてさ―w」とはしゃいでいるでしょう。この時点で話題に参入する資格は失われるのだ。僕にとって制服とは、押し入れから自然に出てくるものではなく、コスプレショップで恣意的に購入すべきものなのである。

 日常の話題から、フィクションの設定まで、およそ「制服」というものはほとんど普遍的な概念であり、ある種の共通前提として存在している。語るまでもない当たり前のコンテクスト。それを読み解くためのモジュールを有していないのは、想像以上に致命的である。

 

 先日の『きんいろモザイク Pretty Days』もそうである。春から通う制服の試着をしているシーンを眺めても、まず「ここはどこだ」という問いから入らないといけないのは、致命的な事象である。

 「制服は専門の取扱店があり、そこで買う。一般的には、地区指定のお店で買う」といった知識は、その実は宝に他ならないのである。さもなくば、「制服は、主に大人のコンビニとかで買う」という、どうしようもない知識しか持ち得ないのである。

 知識もそうだが、経験も重大だ。4月になり、新しい制服を着て登校する。途中で馴染みの友人と出会い、新しい制服姿を見せあいながらこう話すのだ。

「制服が変わっただけで、なんか大人になった感じがするね!」

 そんなセリフを耳にしても、「へぇ」としか感じられないのは、ひどく悲しいことである。

 この悲しみをどこにぶつければいいのか。強いていうならば、イメクラで指定する他ないのだ。

 

 もし、まかり間違ってこのブログを読んでいる小学生がいたら、僕はただ一つだけ伝えたい。

 できれば制服のある学校に行きなさい。そして、その制服は後生大事にとっておきなさい。

 そして、もし進学を控えたお子さんのいる方が、まかり間違ってこのブログを読んでいたら、同様にお伝えしたい。

 お子さんを制服のある学校に通わせてあげなさい。それが、子どもに与えられる最上の教育の一つです。

 制服なき人生は、想像以上にバグ多き人生になる。そんな事態に陥る人が、一人でも減ることを願ってやまない。

 

 余談だが、私服勤務OKだった僕も、先日常駐IT土方マンへとジョブチェンジを果たし、職場規定によってスーツを着て過ごしている。

 だが、いざスーツ暮らしを始めてみて気がついたのは、「スーツは想像以上に個性を生み出している」ということである。

 スーツの色、ネクタイ、ワイシャツ、ベスト、カーディガン、セーター、勤務中ジャケットを脱ぐかどうか……そういった点が積み重なって、スーツ勤務の人々は想像以上に差分を有している。学校制服のような画一性は、少しばかり弱いだろう。

 制服のある職場はあるだろうが、さすがにそのためだけに転職するというのはアレだし、そもそも、「(会社指定の)制服」と「(学校指定の)制服」は、全く異なるもののはずだ。

 僕はもう、制服を着て学校に通うことはできない。このあまりにも不可逆的な事実を受け入れて、残りの人生を歩むしかない。しかし、その人生がいささかみじめに見えるという事実が、心に突き刺さるのもたしかだ。

綾が紡ぐ「最初のきんいろの日々」 ~『きんいろモザイク Pretty Days』感想~

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 『きんいろモザイク Pretty Days』を観てきた。あのモザシコで燃え上がったハローの春からも1年。ひさびさのきんいろの光を前に、僕はこうなっていた。

 本編のエッセンスをぎゅっと凝縮した上で、忍・綾・陽子の中学時代を描き、きんモザ時空にさらに奥行きを与えていく。そして、その奥行きが現在の関係性を担保する。まさにTV版の総決算といった出来栄えで、率直に言ってとても感心してしまった。

 加えて、種田梨沙の出演作として、直近ではおそらく最新作になるわけだけど、ひさびさに聞いた種田梨沙ボイスがあややポエムとなる経験は、心をえぐってくるものがある。

 綾だからこそ許される独白ポエム。これが本作の回想構成といい塩梅でマッチし、「種ちゃん……いつでもいいから帰ってこいよぉ……」と涙ちょちょぎれである。

 

 『Pretty Days』であらためて思わされたのは、きんモザアニメは「時間の積み上げ方が上手」だということだ。

 僕の中では伝説の1期1話もそうだが、単に過去の回想を挟むだけでなく、「その過去がいかに今につながっているか」を描くのが、とりわけエモいベクトルで描くのが、やはりすごい良い。それも劇的なイベントではなく、学生なら誰にでもありそうな「受験勉強」というお題を持ってきたところが、『Pretty Days』のポイントの一つだろう。

 本編では金髪少女二人の存在が大きいが、なかよし5にんぐみの基幹となったのは忍・綾・陽子のトライアングルであり、この3人の関係性は中学1年から続いている。シノアリよりも長いのだ。

 だけども、長いゆえに特別性は感じない*1。そんな、アリスとカレンとは毛色の異なる関係性を、「いっしょの高校に行くために勉強する」という、ありふれた物語で色鮮やかに描く。いっしょの制服を着て入学式にやってきた3人を見て思い出したんですよ*2「尊い」というジャーゴンを。

 そんな物語を端的に表現するキャッチコピーもまた絶妙だ。

どこにでもあるようで世界に一つしかない彼女たちだけの大切な日常――プリティ*デイズ!

 まさに「日常系」としてふさわしい謳い文句だ。

 

 総じて、「きんいろモザイク 小路綾/Zero」とかいう下馬評通り、綾視点で描くことで攻撃力を高めた、きんモザOVAとして出色の出来だった。これまでのきんモザを補完し、その上でなお拡張していく、OVAのお手本のような良作である。

 きんモザに悪い思い出がなければ観に行って損はない。悪い思い出があってもぜひ観に行ってほしい。少なくとも、綾の独白によって、この金色の日常にさらなる彩りが加わる瞬間を、見届けることができるはずだ。

 

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 にしたってこのキービジュアルが本当にいい。映画を観た後だと余計にそう感じる。

*1:綾の陽子に対する感情は不問とする。

*2:本作はおそらく数少ない「制服を着崩していない綾と陽子」を拝める機会でもある。

アニメ10,177作品から、僕が観た434作品をふりかえる

PUBLISH アニメ

はじめに

 さて、感覚的・私的なおすすめアニメの紹介は、この前やった。となれば次は、徹底した母集団との照らし合わせ、すなわち「僕は生まれてからこれまでどんなアニメを見た上で、このアニメをオススメしているのか?」という壮大な検証に他ならない。

 というわけで、

honeshabri.hatenablog.com

  

 こちらを元にして、「これまで観たアニメ」を一通り精査し、視聴レベルと推し具合をチェックしてみた。

  

※思いっきり感覚的・私的なアニメ紹介はこちら。 wasasula.hatenablog.com

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アニメはおもちゃ

CLIP アニメ

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 先日、母校の学祭ついでにサークルに顔を出したところ、現役サークル員の間で「ねねっちをおもちゃにする」ということが流行っていることを知った。

 ここでいう「ねねっちをおもちゃにする」とは、

  • ねねっちは知性が乏しい
  • ねねっちは殴りたくなる(ねねっち虐待)
  • ねねっちはまともに就職が可能なのか
  • ねねっちですら入学できる一橋大学とは*1
  • むしろ一橋大学にそっくりなFランではないか

 などの話題を取り上げ、ゲラゲラと笑うことなどを指す*2。早い話が「ネタにする」ということである。

 僕はこの話を聞いて、とても笑顔になった。いま現役のサークル員とは、少なくとも歳が3〜4つほど離れている。だが、「アニメをおもちゃにする」という文化は受け継がれ、不毛な「遊び」は続いている。コミュニティが残る限り、その根底に根付く文化も生き残るのだと、いたく感心した次第だ。

 

 「アニメはおもちゃ」という考え方は、僕が大学一年のころに出会い、以後なんらかの形で僕を規定している。あらためて思えば、僕がアニメをなにかしら消費する際、根底には「おもちゃにしている」という方向性が働いているように思う。

 その原体験は、一年目の春に、『AngelBeats!』の最終話を「おもちゃ」にしたことだろう。

 当時ピカピカの大学一年生だった僕は、ともすれば学内きってのキモオタサークルに入会した。インターネッツではちょうどエア本と淫夢が文明の興りを示す中、サークル内で最も話題になりやすかったのは、『けいおん!!』と『仏陀再誕』、そして『AngelBeats!』だった。

 つい最近「真章開始」*3という触れ込みでコンマ数秒ほど話題になった『AngelBeats!』だが、当時のサークル内では酷評を通り越して、まさに「おもちゃ」であった。

 「はぁ?聞こえなーい」とゆりっぺが言おうものなら*4誰かが真似をし、ささいなセリフや一挙動からエア本語録に接続された。いま思えば、「実質◯◯」論法が五月雨のごとく飛び交う、最高にハッピーな地獄絵図であった。

 

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 それが極まったのが最終話である。『AngelBeats!』を見ていない人に、ざっくりと最終話の内容を説明すると、

  1.  死後の世界にいる主人公たちだが、もういる理由もないので「卒業(=成仏)」しよう、という話になる。
  2. 一人ずつ成仏していくが、主人公と「天使ちゃん」というヒロインだけが残る。
  3. 主人公が「天使ちゃん」に「俺たちこのまま成仏しないでここで仲良く暮らそうぜ!?」と迫る。
  4. 「天使ちゃん」は「いやそういうのいいから(意訳)」と言って成仏。
  5. 主人公が消えた「天使ちゃん」の名前を泣きながら叫んでEDへ。

 この5.が俗に「クズナシダンス*5」と呼ばれ、当時サークルでは大変大ウケした。

 誰かが「じゃあAngelBeats!みよっか」と言い出すと、それはきまって最終回で、きまって「クズナシダンス」のシーンがある終わりの方まで飛ばす。そして「ダンス」が始まった瞬間にみんなで真似をし、「カナデェェェー!」と叫んだ瞬間にみんなで爆笑する。そんなことをほぼ毎日繰り返していた。無論、僕も踊り、爆笑していた。この期間で、現在の僕がほぼほぼ形成されたようなものである。

 

 上記の行動にはとりたてて生産的な意味合いはない。絶賛の論を綴ったり、批判の弁を唱えたり、それらをぶつけ合った討論をするわけでもない。「クズナシダンス」を前に爆笑する時、僕はたしかに、「AngelBeats!をおもちゃにして遊んでいた」のである。

 もっとも、「アニメをおもちゃにする」という行為は、ある意味ではもっとも基本的な受け止め方であるとも、僕は考えている。

 一消費者が、アニメという娯楽を前に、考察をしたり、批評したり、討論をしたり、というのはよく見かける。けれどもこれ、本来はひどく歪というか、背伸びをした行為であるように思う。そんな権限は、本当はどこにもないはずなのだ。

 まずは、おもちゃとして(ポジティブであれネガティブであれ)「遊び」倒すことが、基本なのだ。ささいな要素をネタにし、ゲラゲラと笑うこと。意中のヒロインに対し、気持ち悪い妄想を膨らませ、自慰にふけること。グッズを買ってはしゃぐこと。

 そんな風に消費した作品は、「たっぷり楽しんだ」作品として、もっとも基本的な記憶の残り方をする。それは、「親の仇のように酷評した」とか、「絶賛するあまりネット上で殺し合いに近いやりとりをした」とか、そういった記憶よりも、よっぽど上等な思い出になるはずだ。

 

 ただ、さらに穿って見るならば、考察や批評といった行いすら、「遊び」の延長線にある、とも言える気もする。

 考察とは、極論を言えば「個人の見解を投影する」ということである。それは、「個人の見解」という遊び方をもとに、アニメをおもちゃにして遊ぶ、とも言い換えられる。批評もまた同様に、「絶賛/酷評」という遊び方をもって、アニメをおもちゃにして遊んでいる、と言い換えられる。討論は、ヘタすれば幼稚園児のおままごとに近い様相すら示すかもしれない。

 この世全ての考察、批評、討論が「遊び」であるということではない。本来、これらの行いは、多くの知識や智慧、旺盛な思考力、精緻な論理が必要なものである。だが、知識も智慧も思考力も論理もない消費者であっても、真似をすることができる。殊にインターネッツには、そんな「遊び」としての考察、評論、討論が多く見られるような気がするのだ。

 

 とりたててこの文章でなにか主張したいわけでもないが、一つだけ思うのは、アニメを前に知識人ぶった振る舞いをするというのも、ひどく滑稽だということだ。

 子どものように、善意的であれ悪意的であれ、ただ全力でアニメを前にはしゃぐこと。それが、僕らが消費者である限り求められていくことだろう。

 トラブルメーカー的側面から、ねねっちを「知性が乏しい」などとおもちゃにしていくこと、大いに結構。そうした楽しみ方もまた、奨励されて然り、である。

 

 

 

P.S.

 天使ちゃんとアナルセックスができるR18版AngelBeats!の夢、僕はまだ諦めていないからな。

*1:詳細はGoogle先生が詳しい。 https://www.google.co.jp/search?q=%E3%81%AD%E3%81%AD%E3%81%A3%E3%81%A1+%E4%B8%80%E6%A9%8B%E5%A4%A7%E5%AD%A6&safe=off&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjC2PD52aLQAhXEzLwKHTmOCGUQ_AUICCgB&biw=1171&bih=627

*2:他にもあるだろうか。教えてくれ現役ボーイズのみんな!

*3:詳細は……と書こうにもWebには公式ソースが見当たらない気がする。なんの雑誌出展だったか。 https://www.google.co.jp/search?q=angelbeats+%E7%9C%9F%E7%AB%A0&safe=off&biw=1171&bih=627&source=lnms&sa=X&ved=0ahUKEwjRpJSM2aLQAhVEabwKHZGEApgQ_AUIBygA&dpr=2

*4:あの時のゆりっぺは本当に畜生にしか見えなかったと今でも思う。

*5:主人公が「音無」という名前であったことと、このシーンのいろいろアレな感じに由来する。